おはようございます、philosophiaです
今朝は、今年の初めから毎朝少しずつ読み進めてきて
まもなく読了する『ドラッカー全集(5分冊)1972年初版』
「日本版への序文」の中で、自身のことや著作に対して
唯一語っている部分をご紹介します。
「長年にわたって多くの人が、私を適当な位置にすえようとして
あるときは、“経済学者”、またある時は“歴史学者”、
さらには“社会学者”等々と呼んできた。
これらのレッテルは、どれも当てはまらない。最初からわたしは、
自分としては、“社会生態学者”とでも呼びたいものであったと思う。」
ドラッカー博士は、人間社会の環境というものを政治的・経済的・技術的な
多面的な側面、つまり学際的なアプローチで著作活動を始めている。
実際、最初の著作は『経済人の終わり』のなかでナチシズム(全体主義)の
解明を行っている。
自身は、自分のことを「文筆家兼学徒」とも言っている。
それは、ゲーテ『ファウスト』に出てくる物見の役リュンケウスに
自身をなぞらえて、「傍観者」という表現も使っている。
ここでの「傍観者」意味は、
「見るために生まれ、物見の役を仰せつけられ」ということで、
変化を見つけ、知らせるという役割としての傍観者の意味で、
それを文筆家(ライター)として著作に著わすドラッカーである。
ドラッカー的な表現だと「知覚する」ということ。
見えないものを見ること(変化の前兆)こそが、
ドラッカー著作の真骨頂と言える。
最後にバリバリ頃のドラッカー博士
(1970年 61歳当時 ニューヨーク大学にて講義中)
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