父は今年で83歳
警察予備隊の創設の頃に入隊し、ずっと自衛官一筋で働き、
もう30年以上も前に定年退官をした。
通常、自衛隊を定年退官し、功績が認められ、推薦されると、
70歳で叙勲を受けるのだが、父は60歳で叙勲を受け、
それが父の一つの自慢だった。
ただ、一つだけ心残りがあって、実は父は警察予備隊に入る前には、
軍人であり、その前には軍属として徴用されてたのだが、
定年退官の時には、その軍属の期間が証明できず、
軍歴証明を何度も申請していた。
しかし、結局証明者が見つからず、また年数が過ぎて行けば行く程、
証明者は見つかりづらくなり、30年以上もの歳月が流れた。
当然年金の期間もその期間は算定されず、それもほぼあきらめていた。
数か月前に、父と話した時に、それが心残りだという事を聞き、
また、思い出したことを書き留めているというので、
「俺がまとめてあげるから」と言って、その書き留めたものを
もらって、官庁で受け入れやすい書式にまとめて提出した。
もし、軍歴証明が取得できても、今の年金制度では5年前にしか、
さかのぼらないだろうし、軍歴の徴用期間も短かったので
1か月の受け取りも増えても微々たるものだろう。
しかし、父はその徴用期間、人生で最も衝撃的な期間を過ごした。
父は、呉の海軍工廠に2等工員で軍属として徴用され、
その期間に海軍工廠が壊滅に近い位の空襲を受け、同僚が何人も
殺されたのを見た。日本全土が空襲の対象だったとは言え、
軍港を狙う空襲はそれは、すさましいものであったろう。
その時父は大きな爆弾にも耐えられるという、防空壕に入ることができず、
小さな防空壕に逃れた。空襲が終わり、外に出てみると
その大きな爆弾にも耐えられるというその防空壕は、ぐちゃぐちゃにつぶれており、
酸欠で死んだ者、目が飛び出している者、屋根まで飛ばされていた者、
そんな惨状があったという事だ。
誰もが戦争は良くないと、軽々しく言うが、本当の意味で
良くないと判っている人は、どれ位いるのだろうか。
国家と国家がその民族の威信をかけた戦いをし、
どちらかの民族が抹殺されるのを拒むとき、どちらが正しい、どちらが悪い、
等とも言えない。
また、その歴史に組み込まれ、命を懸けてその苦労を経験した者に対し、
国はその経歴をきちんと認めてやるべきであろう。
そして30年かかった申請が、昨日、海軍軍歴証明として届きました。
お父さん、おめでとう!そして苦労をして頂いてありがとうございます。
今の日本があるのは、お父さんが参加したその歴史の中で、
お父さんの世代の人たちの苦労のおかげだと思います。