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「ああ、気がついたかい」

 独特のイントネーション。北海道なまりだ。

 ぼくは、ゆっくりと目を開けた。

 白い空間。消毒用のホルマリンの匂い。そこは病院だった。

 枕元に男がいて、ぼくの顔をのぞきこんでいた。

 体を起こそうと思ったが、まるで自分の体じゃないみたいに力が入らない。それでも無理に起き上がろうとすると、右の二の腕に鈍い痛みを感じた。

 見ると、点滴の管が二の腕に刺さっていた。

「まだ無理せんほうがいいよ。……したけど、あんた、オヤジに襲われんでほんとによかったなあ」

 枕元の男は、警官だった。

「ここは?」

 警官に尋ねる。

「中札内の病院だよ」

「病院?」

「カムエクの頂上で倒れているところを助けられたんだ。ほんとに運がよかったよ、あんた。もう山のシーズンは終わったんだが、たまたまカムエクさ向かったパーティがあって、その人たちが倒れてるあんたをみつけたんだからさ。発見が半日遅れていたら、まちがいなく死んでたよ」

「カムエク?」

「カムイエクウチカウシって、舌がこんがらかっちまうっだろ。だから、つめてカムエク。したけど、なんでこんな時期に空荷でカムエクなんかさ登ったんだ?」

 その初老の警官は、急に尋問口調になった。

「……………」

 頭の中を靄が包んでいた。

(カムエク? 山? ここは北海道か……)

 暴風雨の中を苦労してオートバイを走らせている光景が、擦り切れた古い映画フィルムの一場面のように、あやふやに思い浮かぶだけだった。

「なにも、記憶にないんです」

「そだな。目を覚ましたばっかしで、質問した俺が悪かった。あまり、無理せんほうがいいよ。なにしろ2日間も眠っておったんだからな。たぶん、転落でもして、頭打って一時的な記憶喪失にでもなっとるんだよ。何人か、そういう遭難者をわしも見たことあるが、あまり心配せんほうがいい。じきに記憶は戻るから」

 彼は、目尻に深い皺を寄せて、愛想よく笑った。ぼくを心配させてはいけないとという思いやりが感じられる優しい笑顔だった。

 制服の左襟の折り返しのところに、かたまりかかった飯粒がこびりついていた。ぼくの意識が戻りそうだと聞いて、食事もそこそこに駆けつけてきたのだろう。

 翌日には、普通に食事がとれるほどに回復した。

 昨日枕元にいた駐在所の警官が、ぼくのオートバイが見つかったという報告をもって訪ねてきた。オートバイは、山奥の廃村にあったという。テントなどのツーリング装備は、そこにはなかった。

「あのあたりは、登山道もないし、カムエクなんて遥か彼方なのに、いったいどうやって行ったんだろうな?」

 警官は、しきりに首をひねった。

 ぼくにも経緯がまったく思い出せなかった。

 結局、彼は疑念を棚上げにして、ぼくのことをろくな準備もしないで気まぐれに山に登って遭難した旅行者と決めつけた。

 実際、そうなのかもしれない。

「登山届けも出さずに一人で山に入っては、いくらなんでも危険だ。内地とここじゃ、自然のスケールが違うかんね。とても、素人じゃ北海道の山は歩けん。あんたが救助されたカムエクなんかは、オヤジの巣窟だしな。昔、九州の大学生が、あんたと同じところで、オヤジに襲われて一度に三人が死んだこともあるんだから。そいつは根性の悪いオヤジでさ、二日間、まるで狩りを楽しむみてえに、逃げる人間を追跡して、順繰りに殺していったんだ。いや、おどすつもりで言ってるんじゃない。ほんとに、あんたは運がいいと思ってな。記念と言っちゃなんだが、そのオヤジの剥製が村役場にあるから見てったらいいさ」

 そういう旅行者が、毎年何人か日高や大雪山系で行方不明になると彼は言った。

「内地の人間は自然の怖さをぜんぜん知らんからなあ」

 と、控えめな非難をつけ加えて。

 退院すると、ぼくはオートバイを引き取り、東京に戻った。

 あのとき、どうして山に登ることになったのか、山で何があったのか、結局記憶は戻らなかった。  

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 あれから、20年近くの時が経過した。