終章  

ディスクの回る乾いた音が耳に入った。

 ゴーグルを外すと、そこは自分の部屋だった。

 すべてのものは馴染み深いものだが、この、ただ眠りに帰り、わびしい食事をし、テレビで気を紛らすだけの小さな箱の世界は、今まで自分を閉じ込めてきた牢獄だったことを悟った。

 ぼくは、自分の人生という牢獄に閉じ込められ続けてきたのだ。

 すべてが大きなものの夢で、ぼくの人生は、その中に浮かび上がって消える泡のようなものだとしたら、そこに囚われ続けている必要はない。

 ぼくは、淫乱の群れの四番目のディスクをたずさえ、シンのラボへと向かった。  

 そして、ぼくは、『No4』ディスクを装置のスロットに差し入れた。  




 そこは、懐かしい森だった。

 …… 太古から人の手に触れずにきた針葉樹の森。

 人の背丈よりも高いクマザサの下生え、その葉をリズミカルに揺すりながら樹間を吹き渡ってきて、火照った肌をなでる涼しい風。

 しっとりした液体のような森の香りが充満している。

 空気そのものが淡くグリーンに染まって見える。

 森は、とても現実的なのに、何故か自分の存在が希薄だ。

 まるで、魂だけが、この森の宙に浮いているようだ。

「こっち……」

 茂みの先から声が聞こえたような気がした。

「こっちよ」

 今度ははっきりと聞こえた。

 その声で、自分がこの森の中に存在していることが自覚できた。

 声のした方向に、踏み出すと、露をたっぷりたたえた下生えの感触が、はっきりと足に感じられる。そして、胸の中に森の香りが充満する。

 鬱蒼とした針葉樹の樹冠が、陽の光を遮っている。

 一歩進むごとに、森が濃くなっていくように感じられる。

 深海にダイビングしていくように、森の深みに落ちていく。

 そして、ついに森の底にたどり着く。

 深い森の空気を貫いて、天上から一筋の光が射しこんでくる。

 その中に人影が浮かび上がった。

 スポットライトに透けた薄い輪郭のその人物が、手まねきをする。

「ずっとあなたを待っていたのよ」

 そう言うと、彼女は手を差しだした。

 ぼくは、登季子に導かれて森の奥へと進んでいった。

「ここは……」

「そう、わたしたちの村」

 大地を覆いつくす天蓋のように、梢を上空に四方へ伸ばしてそびえ立つハルニレ、そして、その傘に守られるようにたたずむ集落があった。

 そこは、淫乱の群れの村であり、登季子の故郷であるあの旭川郊外のコタンでもあった。

「チキサニは、わたしたちの盟友、守護神なのよ」

 登季子は、幹に触れ、天蓋を見上げてつぶやく。

 ぼくも幹に触れる。

 優しい温もりが、手を通して伝わり、体の隅々にまで浸透する。

 と同時に、息づくたくましい脈動を感じた。

「この世では、わたしたち一人一人はチキサニの細い枝先にぶら下がった小さな実のようなものなの。その位置からは、わたしたちはバラバラに存在しているように見えるわ。

でも、自分の内側へと辿っていくと、一本の梢でたくさんの実が結ばれ、太い梢ではさらにたくさんの実が一つに結ばれ、幹では、すべての実がひとつに結ばれている。

わたしたちはひとつなのよ。

みんな同じチキサニの一部なのよ。

チキサニはわたしたちを生かす。そして、わたしたちはチキサニを生かし、成長させる。

チキサニはね、宇宙そのものなの」

 彼女は、ふたたびぼくの手をとる。

「さあ、いきましょう」

 ぼくたちは交わった。

 ぼくは、彼女の中にあるそのものになった。

 彼女の暖かい粘膜に包まれて、ぼくは奥へ、さらに奥へと進む。

 気がつくと、意識だけが羊水の中に漂っていた。

「こっちよ」

 遠くから彼女の声がした。

 彼女の実体はどこにもない。しかし、探す必要はなかった。

 声のほうへ意識を振り向けただけで、そちらへ吸い寄せられていく。

 ぼくは、いつのまにか、チキサニの梢の中をその中心へ向かって進んでいた。

 導管を辿り、梢から太い枝に入り、さらに幹に吸い込まれた。

 根から吸収されたエネルギーが、大きなうねりとなって上昇している。

 その流れに乗って、上へ進む。

 チキサニの内部を登り切ると、エネルギーは、そのまま宙の中を天にまで突き抜ける柱となっている。

 その行き着く先にまばゆい光が見えた。

(あれが、大きなものだ)

 ぼくは悟った。 

「こっちよ」

 大きなもののほうから声が降ってきた。

 ぼくの意識は、エネルギーの柱の中をまっしぐらに飛翔する。

 そして、ついに、大きなものの中に飛び出した。

 そこは、想像を絶する広大な空間だった。

 広大だが、すべてを見通すことができた。

 あらゆる天体があった。

 あらゆる宇宙があった。

 あらゆる意識があった。

 あらゆる時間があった。

 ぼくには、そのすべてが、水晶玉を見つめる呪術師のように手にとるように理解できた。

 小さな米粒のような球体がある。

 それは、地球だった。

 それを拾いあげ、意識を向ける。  

 見慣れた光景があった。  

 シンの庭のチキサニは、あいかわらず真弓と幼い娘を優しく見守っている。

 お気に入りのハルニレの下で無邪気に遊ぶ子供とそれを見つめる母親。

 ぼくは、ハルニレの一部となって二人を見降ろしていた。

 そして、ぼくの隣にはシンの気配が、それに登季子の気配も感じられた。いや、隣ではなく、ぼくの内に彼らも一緒に存在しているのが感じられた。

 小さなスコップで土を掘り起こして遊んでいたこどもが、こちらを見上げる。

 そして、真っ直ぐこちらを指さした。

 彼女にはぼくが、ぼくたちが見えるのだ。

「どうしたのマーちゃん、なにかいるの?」

 真弓が子供に顔を寄せ、その視線の先を追う。

 真弓にも、はっきりとではないが、ぼくたちの気配が感じられていることがわかる。

「パパ、おじちゃんも……」

 彼女はこちらに向かって手を振った。

 真弓も合わせて手を振る。

 ぼくたちは、梢を揺らして、それに答えた。

「バイバイ、また遊びに来てね」  

 意識をほんの少しシフトする。  



 蒼黒い、寒々しい海に面した海岸。

 台風が過ぎ去ったあとに、海藻や腐った木片が打ち上げられている。

 屈強なアイヌの男たちが、たっぷり水を含んだ堆積物に難渋しながら、三人の男が乗ったイタオマチプ、板くり舟を海へ押しだそうとしている。

 舳先と艫を守るのは傷ついた鎧をまとった落ち武者。

 その間に挟まれているのは、小柄な若者だった。

 彼は、傷つきやつれてはいるが、年のわりには落ち着いていて、泰然と黙想している。

 彼はこれから自分が向かおうとしている大草原を思い描いていた。それが彼にとっては故郷だった。

 彼を守る二人は、過ぎ去ったきつく辛い戦いを回想していた。

 やっと水面に舟を押し出すと、アイヌたちは三人に向かって、深く頭を垂れた。

 舟上の三人も同じように一礼を返すと、遠くに霞む陸影を目指して真っ直ぐに漕ぎ進んでいった。


 見はるかす草原の真ん中に、緋色の胴帯と鞍をつけた馬が一頭たたずみ、草を食んでいた。

 どこからともなく、革の鎧をまとった男が現れた。

 すると、馬は弾かれるように食べるのをやめ、四肢を毅然と伸ばした。男の合図を待ち受ける。

 男は、あのイタオマチプに乗っていた若武者だった。

 舟上のときより、一回り体躯がたくましくなっていた。

 彼が、背に負った長弓を外し、矢をつがえて放つと、それを合図に緋色の騎馬軍団がうねる丘陵の合間から現れ、地平目指して疾駆していった。  




 こんどは、地球全体が見渡せる位置まで引いて見た。

 凄惨な戦いがあり、無惨な負傷者や難民の群れが通り過ぎた。

 どことも知れぬ町並みが現れ、中世のヨーロッパの衣装をまとった人々が石畳の道を通り過ぎる。と、思うと、恐竜がシダをなぎはらいながらばっこする光景が現れた。

 類人猿が人類が人類へと進化するプロセスがめまぐるしいスピードで展開する。

 卵と精子が結びつき、授精卵が分裂して人間の形になっていく。

 生まれ落ち、育ち、恋いをし、子供を育て、老い、土にかえる。

 大陸が生まれ、海に飲み込まれ、また新しい大陸が生まれ……。

 地球のあらゆる事象が一遍に眺められた。  





「まだ先があるんだ」

 声が言った。

 そちらに意識を向けると、実体のない壁を突き抜けて、さらに違う次元へと飛び出した。







 すべての宇宙の、全ての事象の歴史がいながらにして見える。

 いや、見えるだけではなく、無数に存在する宇宙そのものになって、あらゆることを体験できる。  







 『声』は、まだ先から聞こえた。










 そこは無だった。そこにはなにも存在しなかった。





 いや、それは実体を持たない唯一無二の意識だった。





 巨大な、不動で不滅の意識。






 それがあらゆる事象を外側から優しく包みこんでいるのだ。












 大きなものの夢……。














 その意識の暖かみに、『ぼく』は溶けていった。









 完