意識が混乱した。

(ぼくは誰だ? ここは……)

 視界が靄に覆われていた。

(あれから、20年近く経ったんだ)

 懐かしい声。そうだ、シンの声。

(きみも、自分の中に空白を感じて生きてきたはずだ。その空白を埋めるんだ)

 さらに、どこか懐かしい雰囲気を感じた。淡い温もりと、安らぐ香り……。

 傍らに誰かがたたずんでいる気がする。

 その誰かが言った。

「自然を管理できるなんて、人間の最低の奢りよ。

採集狩猟から牧畜、そして農耕から産業革命を経て現代の高度資本主義へと、まるで進化論みたいに社会が進化してきたように言われているけど、それは高度資本主義の社会に生きる人間たちが、自分たちの優位性を主張するために勝手につくりあげた屁理屈にすぎないわ。

採集狩猟や農耕、商業社会というのは、それぞれまったく違うイデオロギーで成り立っている社会なのよ。

今の私たちが暮らしている社会は理想郷かしら?

順調に産業を発達させてきて、みんなは幸福になれた?

アイヌたちは何千年、いえ、何万年もの間、豊かな精神を育みながら、幸福に暮らしてきたのよ。

かれらは、人間は自然の一部であって、自然から切り離されては存在できないということをよく理解していたから。

アニミズムは遅れた原始宗教なんかじゃなくて、人間が何万年もかかって育んできた知恵なのよ。あらゆるものに対する畏敬の念が自分たちを幸福にするという。

すべてのものが、自分たちの手の届かない霊によって支配されていて、その力にただ恐れおののいているアニミズムだと思っているのなら、それは大きな間違いよ。

アニミズムでは、確かに霊の存在とその力を信じているわ。でも、霊と人間は上位と下位の関係にあるんじゃなくて共生関係にあるのよ。

アイヌは熊を神として崇めているけど、熊を食べるし、熊がアイヌに害をおよぼせば『このまま悪さを続けるなら、もう我々はおまえをカムイとして崇めてやらないぞ』とチャランケするの。

そうすれば、ほんとうに熊は悪さをやめるの。彼らの言葉はたしかに霊の世界に届くのよ。ポイヤウンペはいったいどうやってヴェトナムやラップランコタンを旅したと思う?

世界中で、アニミズムを信仰する民族たちは、物理的な距離なんか簡単に飛び越えて精神的に感応することができるのよ。霊の世界を通してね。

現代人は、とくに奢り高ぶっているシャモたちは、アニミズムからもっと多くのことを学ぶべきだと思うわ」

(登季子……)

 突然、あらゆることを思い出した。

「登季子さん、どこにいるんだ?」

 ぼくは、白い視界の中を見回す。

 彼女の気配が身近にある。それをはっきりと感じることができる。

 だが、彼女の姿は見えない。

 今度は、ぼくの内側で彼女の声がした。

(私ね、現実なんてほんとうはどこにもなくて、すべては夢の中の出来事なんじゃないかって思うことがよくあるの。

私もあなたも、じつは存在してないの。

今こうしているのは、何か大きなものが見ている夢にすぎなくて、あなたも私も、この山も町も、いろんな人たちも、その大きなものが何の脈絡もなく見ている夢の光景にすぎないんじゃないかってね)

(大きなもの?)

(そう、それが何かはわからない。もしかしたら、神とか宇宙なのかもしれない。

でも、ひとつだけはっきりわかるのは、その大きなものは、やさしくて、すごく暖かいってこと。

……囲炉裏の火を見つめながら、おばあちゃんの膝の上で昔話を聞かされているときのような、すべてを託せる暖かさ……みたいなね)

 シンの声が言葉を引き継ぐ。

(きみは、彼女と一緒に行くべきなんだ)

(そう、ぼくは、彼女と一緒に行くべきなんだ)

 そう確信すると、気の遠くなるような暖かみに包まれた。

 大きなものの暖かみ……。