ダフ屋と仲買人 | 秋山のブログ

秋山のブログ

ブログの説明を入力します。

ダフ屋の行為は法律で禁じられている。暴力団の資金源であったことから禁止されたというのが経緯だと思われるし、そのために禁止されるのは当然のことであると考えられるが、はたして経済学的にはどうなのであろうか。経済や国民の厚生に対する影響は。例えば仲買人などの行為も生産者から買ってより高く消費者に売る行為である。どこが違うのだろうか。

 

買う人間の視点だけから判断すれば、ダフ屋行為はあながち誤りでもない。列ぶ労力の対価を払っているだけとか、より強く欲求している人間が手に入れている(もっとも価格に対する個人の感覚の違いを失念している)とかの理由が考えられるだろう。しかし全体をみて考えれば、それが単純な見方であり、正しくないことも分かる。例えば転売を無制限に許すことになれば買い占めなどによる足元をみた販売なども大きな資本を持つものには可能になってしまう。また、実際のモノを生産する生産者とそれを実際に消費する消費者の現実的な考えで決まる価格とは違った歪な価格形成(通常の価格形成を過信すべきでもないが)にも繋がるだろう。仲買人がダフ屋と違うのは、モノに対して専門的な高い知識を持って、効率のよい分配に寄与していることだ。全体としての価値を高めている上で、あまり大きくない見返りを得ている。

 

この話はダフ屋を糾弾しようとした話ではない。所謂カジノ資本主義の問題に関しての話である。資本の取り分増大(ピケティが証明している)のカラクリの一つが、ダフ屋のそれと一致しているのだ。現代社会において様々なものが証券化され、市場で売り買いされている。すなわち、巨大な資本の所有者はダフ行為をし放題ということにもなる。そのために、資本の自由な移動が重要などという真っ赤な嘘が広められ、一部の経済学者を除いてすっかり常識になっている。外国資本に入ってきて欲しいのは、自前で技術を開発できなかったり、機器を買う信用もない途上国だけで、そうでなければ自前の銀行が融資すればいいだけのことだ。途上国の場合でも、外国資本についてくる技術が欲しいだけで、外国資本は本来いらないのだ(直接投資ですらそうである。間接投資はなおさら不要)。経済学で一般的に使われる生産関数は資本の定義の混乱を利用した誤りである(なかなか手の込んだ詭弁だ)。

 

カジノ資本主義を支えるための嘘はまだ他にもある。市場には極力政府は介入すべきでないというのがそれだ。これは市場であることで、容易に市場機能が働いて適切な状態になるという思い込みを利用している。例えば、為替は実体経済のためには今よりもずっと安定しているべきだろう。しかし安定していれば、彼らの利益は小さくなるのである。そして現実を見れば、いかに安定していないかも分かるだろう。それぞれの市場の社会に関する貢献、例えば流動性の向上なども以前書いたように詭弁に過ぎない。各市場お抱えのエコノミストは、散々嘘を流して市場を守ろうとしているのである。