継続される誤解 | 秋山のブログ

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経済学の歴史をたどってみて、次に指摘したいことは、当時の誤解、その頃の状況であればいたしかたないとも思える誤解が長きにわたって継続されているということである。

古の経済学者が全く理解できていないことは、貨幣の意味と性質である。
現代においても、会計等の業務に携わったことがないような場合には、同じように理解できていない人も多いだろう。貨幣について深く学ぶ機会がなければ、日常生活において経験しているお金の常識、お金は使えば無くなってしまうものである、貯めようという意志次第で思ったように貯めることもできるものあるといった知識(しかしマクロ経済においては間違っている)を持つようになる。さらに当時は、貴金属が貨幣の主流であったこと、銀行のシステムが整っていなかったこともあって、より仕方がなかったとも言えるだろう。
貨幣は今も昔も流動性を持った借用書であり、信用創造で無限に供給できうるものである。これは、仮説とか、そういう考え方もあるとかいう話ではない。これ以外の考えは全て誤りと言っていいくらい確かな話だ。(無限の供給に関しては、昔は貴金属の量によって限度があっただろうし、現代も準備預金制度という制度による限度がある)

貨幣に関する誤解は、また別の誤りも生み出している。原始的蓄積という概念もあるように金融資本が徐々に形成され、それが生産の要素になるという考えである。こつこつとお金を貯めて事業を始めるという一般的な行動からも、当然であるように思いがちであるが、貨幣の本質を理解していれば、それが間違いであることに気付けるだろう。
この誤解と関連のある重商主義は、アダム・スミスにより否定された(アダム・スミスの最大の貢献である)が、資本の蓄積はアダム・スミスも踏襲し考え方として生き残っている。アダム・スミス以降も貯蓄が即ち投資であるという考えが根強い。生産関数の問題も同根だろう。

一方、アダム・スミスから始まって、脈々と受け継がれている誤りもある。所謂見えざる手という思想がそれだ。見えざる手は、受給曲線や、均衡、限界生産性など様々形を変えて生き続け、強力な影響を与えている。
言うまでもなく、見えざる手は思想に過ぎないものであって、事実により証明されたものではない。強いて根拠を上げれば、フィードバック機構が存在するということくらいである。しかし自然界において、フィードバック機構が存在して調整的に働くものは星の数ほどあるが、ほとんどの場合均衡は観察されない。

前提が間違っていて正しい理論体系を構築できるはずはない。経済学が現実と一致する理論体系を打ち立てられないのは、経済の複雑さゆえだという弁解を聞いたことがあるが、現実との不一致をみても前提から見直そうとせずに、なんとか辻褄をあわせようとしたためというのが正直なところだろう。
例えば検査技術の向上によって前提となる事実が変わり、過去の研究業績、大量の統計資料や実験データが全く無価値になることは、科学においては珍しいことでもない。経済学に必要なのは、間違った前提でおこなわれた莫大な量の研究を捨て去る勇気であると考える。経済学は人を騙すための道具から脱皮していかなくてはいけない。