投資と国民所得勘定の恒等式 | 秋山のブログ

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投資や国民所得勘定の恒等式に関して、今までいろいろ書いてきた。定義に問題があり、混同や様々な勘違いがあるのは、以前書いた通りだが、自分自身を振り返ってみれば、巷の間違いに振り回されてもいる。ということで、再度考察してみよう。

まずは投資の定義をはっきりさせよう。投資という言葉は、経済以外でも日常的に使われる。『将来を見込んでお金や力をつぎ込むこと』と辞書にはある。かなりポジティブな概念なので、「それを抑制するから〇〇は悪い」などと言われれば、一般の人は納得し易いだろう。しかし投資という言葉は、分野によって違いがあり、それが混乱のもとにもなっている。
金融における投資の定義は、『金融資本を経済・経営活動を通じてリスクのある投資対象に投下すること』ということである。この場合の金融資本は、貨幣資本即ちお金とほぼ考えてよいだろう。つまり誰かが持っているお金、又は他者から借りたお金を株や貴金属、土地などを、リターンを期待して購入することだ。冷静に考えてみれば、この行為は評価や担保としての価値を上げてお金を借りやすくするという効果があり、条件によってはそれがわずかながら有効に働く場合もあるだろうが、基本的には(特に有効需要不足の状況では)経済を成長させる効果はない。『低い投資収益の投資機会を削減してより高い投資収益率に集中することで経済全体の投資収益がより早く成長し、それがひいては社会全体の総金融資本を成長させる』などとWikiには書いてあるが、金融資本は誰かの借金の裏返しであり、高い収益は別の誰かのお金がそこに移動したに過ぎず、全体としてはプラスマイナスゼロである。投資家が投資先を変えても、投資先の株価が上下するだけだ(もちろん株価の上昇によい作用がないわけではないが)。金融資本は、限られた資源などではない。総金融資本の成長は、経済が拡大した結果ならば望ましい(一人当りの生産と消費が増えれば、人々や企業のする借金も比例して増えるだろう)ことだが、単に誰かが借金を増やした場合だってある(例えば国が大量の借金をする等がある)のだから、それを目標としたり高く評価することはナンセンスだ。引用した文章は、投資を優遇する政策を実行させたい投資家が考えた詭弁にすぎないだろう。
経済学における投資の定義は、『資本ストックの増加分を指す』とのことだ。設備投資、住宅投資、在庫投資の三種類があるとされ、こちらはお金ではなくて、生産物(資本ストックは金額換算され評価される)である。このような定義にすることに関しては若干の違和感を覚える。これら3つはかなり性格の違うものであろう。また、消費との対比において、投資はある程度の期間存在し得るものであるが、消費財と比較してその差は多少のものに過ぎない。それはさておき経済を考える上で重要性が高いのは設備投資である。設備投資は生産性を向上させる効果も持つ。設備が増えれば増える程、生産能力は上がるはずなので、単純に考えれば資本の蓄積が重要などという話になるかもしれない。ここで間違えていけないことは、生産能力を上げるのはお金を貯めることでも、金鉱をためることでもなく、生産の基盤を整備することが有効ということである。一方、上記三種のうちの設備投資と住宅投資には共通点がある。経済に対する効果を考えると、このニ種類は、手持ちのお金で買ったわけではない生産物の購入である。借りて設備投資をするという構造が内部留保によって昨今崩れもしているが、基本的には設備投資は借金してするものであるし、住宅も現金でポンと買うのは例外で通常借りて買うものである。在庫は、まだ売れていない状態だ。経済がスムーズに循環し、発展していくため(直接的な生産性の増大ではない)にはこの借金が重要な役割を担うので、投資の実際のデータは、意味のあるデータになるかもしれない。(この借金の総額は、貯蓄の増加分の総額と一致するため、投資は借金して買った物と定義するのがいいというのが、以前書いたものの趣旨である)

さて、投資に関係する重要な式として国民所得勘定の恒等式がある。
国民所得勘定の恒等式(便宜上政府関係は無視して考察する)では、消費(財)と投資(財)という概念に分けており、消費は収入によって増減し、投資は利率によって増減するものとされている。
しかし投資の増減でもっとも重要な要素は、需要の予測である。経営者が売れると判断するから、増産するために設備投資をするのである。個々の産物には需要の限度があり、作りすぎては大損なので、需要予測は大抵控えめになるだろう。生産コストが逓増する領域に到達することは稀であろうし、ましてや利益がゼロになるような領域に達することはないだろう。もちろん利率の上昇は、物品の購入より貯金に人々が傾くことと、採算が合わなくなることで一部生産活動を取りやめさせるという機序で、投資財を減らすブレーキの作用を持つだろう。もし何らかの数式でこの投資を表すのであれば、この大まかな構造はきっちり反映させなくてはいけないはずだ。利率だけで左右されるものと考えることは間違っているし、ましてや現実離れした限界費用がゼロになる点まで投資されるという前提で計算するのであれば、間違った答えしか出ないであろう。(こういうことが正しい基礎付けだと思われるが、間違った基礎付けが罷り通っている)
消費が総生産量=総取引量で規定されるというのは、もっと馬鹿げている。可処分所得の増減で消費が増減するからという理由であろうが、購入、消費は得た収入によってのみ行われるわけではない。借金して消費財を購入する人間もいるだろうということだ。そしてそれはプラスとして総取引量=総生産量に計上されるのである。消費が総生産量で規定される関数であるという話になれば、金利もしくは投資量によって総生産量は一意に決定できるという話にもなる。しかし総生産量で消費が決まるということはなく、同じ社会状況、同じ金利のもとでも等しい総生産量になるわけではない。
消費と貯蓄に分けた式もおかしい。貯蓄率、貯蓄性向に関して、ミクロとマクロの混同であるという話は以前書いた通りだ。貯蓄率等に着目して投資を考えるのであれば、投資の定義を変えなくてはならないだろう。そもそも投資の式と貯蓄の式があること自体意味がない。例えるならば、’AがBに上げたお金=BがAからもらったお金’という式から何かを導きだせるわけもないのである。
国民所得勘定の恒等式を発展させて、ISLM曲線だとかDSGE等のモデル等いろいろあるが、前述のように現実と乖離した前提や、用語の混乱や、ミクロとマクロの混同など様々な間違いを積み上げて成立したモデルばかりである。そこで使われる数式は、本来理解を助けるために使われるべきところを単に分りにくくしているだけだ。モデルを明確にするということではなくて、単に機械的に当てはめて、精密なことをやっているつもりになったりしているのである。

それでは国民所得勘定の恒等式には全く意味がないかといえばそうでもなく、有益なこともある。経済の主体に家計と企業と国家があって、それぞれの役割をイメージするために役立つのではないかと思う。注意深く、用語の意味に着目し、何故そのように定義しているか考えることが重要である。