スチュアートとヒュームの貨幣数量説 | 秋山のブログ

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貨幣数量説は重商主義の時代からのもののようだ。経済思想史に面白い記載があった。抜粋して、引用する。

『貨幣が経済に与える影響について、今日まで及んでいる二つの相対立する見解がある。一つは、「貨幣数量説」と呼ばれる見解である。この理論は国内で貨幣(=金銀)が増加しても、それは物価を押し上げるだけに終わるとする見解である。例えば、貨幣が2倍になったとしても、賃金や物価などが全部2倍になり、実際の生産量や雇用量には変化が無いというのである。つまり、実物経済(生産、消費、雇用など)に貨幣は影響を与えないということになる。
これに対して「貨幣経済論」と呼ばれうる立場がある(この名称は必ずしも一般的ではない)。これは貨幣量の変動が実物経済に影響を与えるとする立場である。この立場によれば、貨幣量が増えると物価もある程度上昇するが、生産量や雇用量も増加することになる。』

『ヒュームは貨幣数量説を主張していた。』ただし、『ヒュームは貨幣数量説だけを唱えていたわけではない。貨幣が増加しても物価が全般的に上昇するまでには時間がかかる。その間は生産が刺激されて、実物経済が拡大すると考えていた。』

これにたいしスチュアートは、反対している。『「財宝として退蔵され」ることで流通に入り込まない可能性』を指摘している。さらにスチュアートは、需要増加によって直ちに価格の上昇がおこり、供給の上昇もおこると考えていた。

さて、見解が二つに分かれ今日まで及んでいるというが、少し違うように思える。
両者ともに短期での実物経済への影響は認めている。金鉱の発見等で、それは現実に観察されたことであったのだろう。合理的期待形成学派という極端な主張は別として、経済学者の多くは政府による貨幣の供給である財政政策の効果を短期的であれば認めているし、実証上認めざるを得ないだろう。何がいけないか考えてみれば、これはあまりに単純化したため、もしくは貨幣が循環しているイメージを捉えていないために分かれているように見えるだけで、ほとんど矛盾なく説明できるのである。

モノをいくら生産しても、それを買うための貨幣がなくては消費者はそれを手に入れることができない(物々交換や個人的な借りとしなければ)。その国の政府又は中央銀行に対して提供した何らか(昔は貴金属)の対価として得た貨幣がまず必要になるだろう。そしてモノを売った代金が再び消費者の収入となり、循環していく。
ここで消費者がより多いものを欲したとしよう。しかし現状ではより多くのものを買うことはできない。貨幣が増える必要があるのである。生産する余力があっても貨幣が増えなければ買えないということだ(消費者が借金をして購入することも考えられるが、それは貨幣を手に入れることと同じことである)。
ヒュームらが観察し、現在でも観察できる貨幣の増加によって経済が改善するという現象は、買う意欲はあって、生産する能力もあるのに貨幣不足で完全には上手くいっていないということを示しているだろう。主流派経済学で想定されているように、最大限生産しているとか、利潤最大点まで生産しているなどということはないのだ(この想定が正しければ、貨幣が増えても生産は増えないはずだ。もちろん、財政政策は不況の時だけ効くと強弁することはできるが)。
現代ならば金鉱を発掘しなくても貨幣を増やすことが出来る。企業への貸し出し、政府への貸し出し、すなわち銀行の信用創造機能によって貨幣を増加させることが出来るのだ。本来企業は消費者のニーズを見つけて事業を開始するものであり、その役割を担うものとして最適であると思える。もっとも事業のために企業が借りるお金が消費者の収入を十分増やせるかどうかに関しては確実ではなく、最近の企業は内部留保に走って健全な循環を邪魔している。
逆に、消費者が現状で満足している状態、需要飽和にあった場合はどうなるだろうか。この時はスチュアートの言うように、貨幣の増えた分は退蔵されるだろう。現代では、単に隠し持っているのではなくて、投機的市場で循環させておくといったことの方が主になっている。そのため単純な需要飽和ではなくて、欲求を抑えて退蔵することも多いだろう。
さらに、投機の循環に逃げるなど、貨幣が減少する場合を考えてみよう。当然、購入する代金が不足するので、生産したモノがそっくり売れるわけはない。価格の低下率より、利潤の低下率は大きいので、それに見合う程多く売れる可能性はないので、価格が下がるといったこともないだろう。生産力が貨幣の不足によって生かされないようになることがよく分かるだろう。

それでは価格との関係に注目してみよう。
需要と供給を主たる要素として決まるのは、証券等の交換のみをおこなう市場の場合であって、生産がおこなわれるモノの市場においては、希少性はそれほど強くない一要素に過ぎない。そしてそのようなモノの場合、価格の変動はほとんど起こらない。価格決定者である生産者は、生産費に利益を上乗せした価格で、大凡売れそうな量を生産するからである。増産する余裕は当然あるし、利潤最大点まで生産しているわけでもない(ほとんどのモノは実際の生産量においては収穫逓増の域にある)。予想以上に売れれば利益をよい率で増やせるので、すみやかに増産する。価格を上げるなどという冒険は滅多にしないだろう。価格が速やかに上がるというスチュアートの予想は間違いだろう。
競争状態にあることも価格が上がりにくい理由だ。競争の度合い、受給のバランス、コストの変動、消費者の懐具合等、どれか一つで決まるわけではなく総合的に上がるかどうか決まる。すなわち、貨幣の増加は上げる方向の力として働くので、上がるときもあるだろうし、ほとんど影響ないときもあり、どの程度上がるかどうかは、他の条件次第ということだ。例えばオイルショックのような場合、コストの上昇だけでなく、競争する近接分野も同じ条件で上がるので上がりやすかっただろう(上がった価格によって消費量が減少するほどであった)。
逆に貨幣の減少を考えてみれば、価格を下げる圧力にはなっても、前述のような仕組みもあって、上がる時以上に下がりにくいであろう。

まとめてみよう。
貨幣の増加(退蔵分は除く、以下同様)は、成長のための条件である。消費者のニーズと、生産力の向上と貨幣の増加が揃ってはじめて成長は実現する。現実の経済は最適な状況になっているなどということはほとんどないので、貨幣の増加は経済を改善するために大抵有効である。貨幣の増加は一人当たりの消費を増やし、商品の価格を上げる。商品の価格がある程度上がると、貨幣の増加した分の効果が消失する。財政政策は、政府の借り入れによる貨幣の増加であり、金融政策は金利を低下させることによって企業の借り入れを増やすことと退蔵する貨幣を減らすことにより貨幣を増加させる。