生産性に関する正しい理解 | 秋山のブログ

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成長を考える際には、その背後には生産性という重要な概念がある。ところがこれは「セイの法則と経済白書」で書いたように、その内容に問題を含んでいるために、日本の労働者の生産性は低い等々のおかしな結論が導かれる。そこでこの生産性という概念に関して考察してみよう。

経済成長とは経済の規模が拡大していくことである。より多く生産されより多く消費される社会になっていくことである。人口が増えることによる生産と消費の増大もあれば、一人当りの生産と消費の増大もあるだろう。特に後者のパターンは、歓迎されるべきことであり、目指すべきことであることに異論はないだろう。生産性は、同じだけの労働力や投入物を入れた時どの程度生産できるかという定義である。それが上昇することが、成長であるということは、人口増による成長を除けば、大凡等しいように感じられるものだろう。

ところがこれには大きな問題がある。それは価格というものが、均衡によってその値が決定される尺度としてかなり制度の高いものであるという誤った思い込みだ。量や質が改善しても金額の総量が上がらなければ評価されずに、全く生産性があがっていないということになる。日本の労働者の生産性が低いという話はこれによるものであるし、このカラクリによって途上国などの場合で高度な仕事をしているのに為替のために低く評価されるということがありうる。

また、その扱いが生産関数を意識したものであることも問題である。生産関数は、資本と労働力を互いに独立した同格な要素としていること、供給によって需要が決まると仮定していること(もしくは需要を無視していること)、収穫逓減という誤った仮定、1次同時関数であるという誤りなど、現代の主流派経済学の誤りの見本市といっていいようなガラクタである。
例えば資本生産性は、資本(設備を意味するが、設備のためにお金が必要であることなどから誤解を生じやすい。明らかにお金の意味に摩り替わっていることがよくある)1単位に対してどれだけ価値を産めるかということである。「資本が遊ばないように多くの労働者を雇うと資本生産性は上がるが、労働生産性は下がる」などという話になっているが、現実には需要を予想して生産の準備がなされ、設備が決定される上に、設備稼働の必要労働力は一定のことも多いので、労働力投入量で資本生産性が増えたの減ったのいうのは意味が無いだろう。

より効率よく生産するための能力の向上は、研究開発による大きな進歩から、日々の業務による小さな発見まで、様々な形でおこっている。しかし、価格据え置きで需要が増えるか、製品をより高く買ってもらえるようにならなければ、それは目に見える形にはならない。消費者即ち労働者の収入が抑えられている状態では、どのようなイノベーションがあろうが、生産性が上がったことにはならないのである。逆に言えば、さまざまな向上は日々起こっているのだから、それに見合うようにまず労働者の賃金を上げることから始めるべきだろう。それによって、今まで経済の循環がおかしくなっていた(内部留保や、成長率に見合わない高利子、高配当による)ために低く抑えられていた生産性は、大きく上昇に転じるだろう。(インフレをとにかく抑えるべきだという考えに基づいた政策は、生産性を最悪に抑制するだろう)

経済成長を考える際に、何気なく使っていた生産性という言葉は、単に間違いのもとになる概念かもしれない。代わりに生産能力の増大という言葉を使い、需要を重要視して経済成長を考えるべきではないだろうか。