ブラックなワークシェアリング | 秋山のブログ

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以前から不況は、新自由主義という間違った考えに基づく間違った政策よる人災であって、少子高齢化は原因とは呼べぬ程のわずかなマイナス効果に過ぎないことを述べてきた。日々自然におこっている生産能力の増大が人口の減少率より大いに上回っていることや、例えば工事現場における職人不足は長い需要抑制による技術や人材の喪失によるということ、求人倍率は無茶な(相当条件の悪い)求人がおこなわれれば余剰人員が多くても充足されずに高くなるといったことなどを説明してきた。ただ、EU等の多くの国と比べて日本の失業率は相当に低いわけであるし、ブラック企業でなくても人材確保がたいへんであるというニュースも流れる。私が書いてきたことは間違いなのではないかと、考える人がいても不思議はない。そこで今まで書いていなかったそのカラクリについて書いてみたいと思う。

コンビニエンスストアは24時間営業が当たり前になっているが、そのためにどれだけの人数が必要になるか計算したことはあるだろうか。コンビニの利便性は格別のものがある。しかしそのためにはるかに大きな労働力が必要になっているのだ。労働基準法の8時間を基準に考えれば、単純には3倍の人数が必要と考えていいだろう。コンビニは通常の商店より高い価格でも売ることができるし、競争力は高く、より多く売ることもできる。しかし通常の店がコンビニに変わった時に3倍の人件費を稼ぎ出すことができるだろうか。需要は一定ではなく様々変動するとしても、例えば食料であれば何倍も食べるようにはならないであろう(コンビニの客の多さは、多くの場合新たな需要を増やしたのではなくて、いくつかのライバル店から客を奪っただけである)。雇用者数が増えた以上に売上げを延ばしたコンビニももちろんあるかもしれないが、それはさらにその分他の店の需要を減らしているということだ。結局全体で見れば、コンビニが増え、流通の形態が変化していることは、販売するために必要な労働力を劇的に増大させ、同時に労働に対する対価を平均として大きく下げてきたのである。そして労働者の賃金が下がることは、経済にさらなる需要不足をもたらす。これを見れば、優れたものが生き残ることが必ずしも経済全体のためになるとは限らないことも分るであろう。

消費者の購買力が足りないための需要不足の日本経済は、生き残るための競争が熾烈だ。限りある需要を自分のものにするために、改善に努めている。競争は価格を下げるだけでなく、質を上げるというのも一つの方法なのだが、技術の進歩ではなくて投入する労働力を増やすというのが、容易に質を高められる方法である。コンビニには効率的な仕入れや自社開発などの別の柱もあるが、前述の時間を延ばして利便性を上げるという労働力増大によるものが主たる柱であろう。このやり方は、賃金が低すぎて人を確保できずペイしない可能性だってあるはずだったが、不況と労働政策の改悪により上手く軌道に乗っている訳だ。そして、多くの人間がこの競争によって返って不況を悪化させていることに気付かないでいる。(賃金を下げて価格を下げるというやり方もありえる。デフレスパイラルという感じだろうか)

何度も書いているように日常的な生産能力の増加は、少子化のペースを大きく上回っている。しかしそれでも人がそれ程は余らずに、一部の分野では足りないことすら見られるのは、安い賃金で余った人間が質の改善のために投入されるからである。それはあたかもワークシェアリングがおこなわれているようなものかもしれない。専門技術を持たない非正規労働者には、自分の賃金を適正水準まで上げる運動をする余力はない。労働運動の代わりに政府が最低賃金という形で介入する必要があるだろう。適切な最低賃金を考え計算する研究を誰かしないものだろうか。もっとも新古典派経済学の枠組みでは、賃金は自然に適切な値になっているという仮定であるから、それとは異なった理論体系が必要であろう。