秋山のブログ

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本来経済学の入り口であるはずの貨幣の理解を間違えていた(金属主義、商品貨幣論、貨幣のプール論)ことが、現在の経済問題の大きな要因である。MMTは、貨幣の理解を進め、今後経済学を正していくだろうけれど貨幣の研究は、(狭義の)MMTerの独壇場ではない。

 

今回取り上げるのはこの書籍からである。政府債務を次世代へのツケとしている明確な誤りもあるが、内容のほとんどは正しく、貨幣とは何かということを考える上で役に立つ表現もいろいろあった。

童話作家であるミヒャエル・エンデは、経済、特に貨幣に関し問題意識を持ち、学び続け、それを作品に織り込んでいった。例えばハンス・クリストフ・ビンズヴァンガーというスイスのザンクト・ガレン大学の経済学の教授と交流を持って勉強している。エンデが特に影響を受けているのが、ルドルフ・シュタイナーとシルビオ・ゲゼルである。この二人の特徴は、お金は時間とともに減価していくべきというものだ。

 

シュタイナーは、貨幣を小切手のように理解しており、その本来の機能を失った時に価値も失われるべきということから、減価すべきと考えたようだ。金属主義に陥っていないところは、大いに評価できるが、友愛等の話から結論を導く思考には、私は賛同しないので、もっぱらゲゼルについて述べたいと思う。(この書籍は、エンデについてというより、むしろゲゼルについてと言っても過言ではないだろう)

 

ゲゼルはアルゼンチンの経済危機の際、政府の通貨政策を批判し活動したが、全く反応が無かったために、アルゼンチンの今後を予測し、自分の工場を売り払って隠棲を開始した。アルゼンチンがおこなっていた政策を放棄したのを見て、再び事業に復帰し、莫大な財産を築いて1900年リタイア、スイスに移住する。ゲゼルの言っていたことが正しかったことが証明されたということである。

彼はその後紆余曲折の人生を歩むことになるが、多数の著作を残し、ケインズにも評価されている。

 

ゲゼルがお金が減価する理由として、孤島のロビンソンの寓話が用いられている。こういうものは読めばもっともらしく感じるが、単純に信じるべきではない。しかしながら少なくとも、お金と財が大きく違うものであるということは事実であるし、それに関してはよく分かる比喩だ。財は貸さずに持っていれば、食糧が腐ったり、ネズミに食べられたりするように、時間とともに失われていく。だから同じものを同じ量返せば喜ばれるはずで、利息を考えなくてもどんどん貸し借りがおこなわれるところが、お金を貸すということであれば、利子を貰えなければ貸さないという話になる。お金は時間とともに減価しないので、そのようなことになるわけだが、本来交換によって経済を支えるものが貯蓄によってその機能を低下させているといったことも事実であろう。

 

ゲゼルの減価する貨幣のアイデアは、現実に、今昔様々な地域でおこなわれていて、その詳細に関しては、この書籍を読んでいただいた方がよいと思われるが、反対者が思いつくような問題、例えばそんなものを人々が認めるわけがないといったことは起こらず、素晴らしい成果をあげていった。また予期せぬ副作用も認めなかった。しかし多くは、政府による横槍で禁止されるという結果に終わっている(ニューヨーク州の地方都市イサカでは継続中である)。この実際の成功こそ、貨幣の貯蓄によって交換という本来の機能が損なわれていること、お金の減価によって経済がうまくいくことの証明である。

 

以上がこの書籍から得られることだ。

 

最後に、お金の減価について述べる。

お金の減価と言ってすぐに思いつくのはインフレであろう。インフレだけでなく、例えば人々が倍の生産をおこなえるようになって収入が倍になるような状況も、相対的に貨幣の価値は減っている。要するに名目成長率がお金の減価の仕組みなのである。実際、利子率と名目成長率との比較でどちらが大きいかということで、景気がよくなったり悪くなったりすることが観察される。これもまたお金の減価が必要であるという証拠だろう。そしてお金の貯蓄によって、ほぼ常に需要の方が足りなくなるはずということも、資本家と労働者の格差が広がれば需要不足に拍車がかかることも教えてくれるだろう。

減価する地域通貨は悪いアイデアではないが、本来は政府が正しいことをすればそれで済む話である。税は極力、貯蓄や貯蓄を増やすレントの部分から取る。大いに稼いでも、使うのであればあまり税をかけない。嘗ての、高い累進性ではあるが、経費も大いに認めるというのは理に適っていた。嘗てフラフラしていた若者を自衛隊に勧誘して教育した日本版JGPも、良いやり方だろう。結局のところ昭和末期、バブル崩壊以降に導入された政策は、大抵大改悪であり、エコノミストによるプロパガンダで誘導(政治家や官僚が脅されたり、利益誘導されていた可能性もある)されたものだ。特にインフレターゲットという愚策は、インフレを抑制するために金利を上げるというまったくもって本末転倒な政策である。

 

MMT(狭義)では、物価が上がってきたら支出を抑えればよいといった単純な話になっていることが多いが、実際に政策を考える上では、このような知見も必要になってくるだろう。貨幣の理解を深めるために今回のような話は重要であると考える。

 

 

モンティ・ホールの問題をご存じだろうか。目の前にある状態に人はいかに左右され判断を間違えるかという話である。詳しい話はリンクを読んでもらうこととして、ここで得られる教訓は、物事を判断する上で直感等でまず結論を決めてからそれが正しい理由を探すことは間違いを生む。偏見無く全体像を把握することが重要だということだ。この問題は多くの人が先入観から間違えたが、順を追って確率を考えればそれ程難しくはない。しかしながらそれなりの数学者までもが、間違った答えに固執し、恥の上塗りをしたことでも有名である。例えばある者は、多くの権威者の意見だと言って間違った答えを正しいと言い張った。

 

同じような話は、経済に関してはたくさんあって、貨幣のプール論などもそうだろう。ただ、今回はプール論についてではなくて、自民党総裁選に伴い、しばしば報道されている「今後、少子高齢化するために消費税が財源として必要である」という間違った主張である。

 

まず根源的な問題として、税が財源という考えが正しくない。ほとんど全ての国民が財源だと考えているが、本当のところはそうではない。徴収を楽にするためか、税の対価としてサービス等を供給しているかのように政府も宣伝しているが、政府が国民に尽くすのは、近代国家においては納税とは関係なく当然のことである。税の対価だと考えるのは、政府を企業と混同しているのである。営利を企業が目的とするのに対して、政府が国民に尽くすことが目的であることからも、ここは大きな違いだ。

政府(+中央銀行)が、貨幣を発行しなければ貨幣が存在しえないことも、税が財源ではないことを理解する上の助けになるだろう。貨幣が使うことで手元から無くなり、働くことで手元に入ってくるからと言って、貨幣自体は消えたり現れたりしているわけではない。人から人へ移動しているだけである。そしてその最初に貨幣を出現させるのは、(統合)政府しかないのである。

政府の歳出と歳入の実務を見ても、税等の財源からお金を集めてから歳出をおこなっているわけではない。歳入の額を予想して大凡合うように(もっともそうすることに正当な根拠はない)歳出する額を決めているだけである。歳入額は景気の動向などによって大きく変化し、当然ながら予想通りにはならない。予算案に則り歳出し、その後税等で戻ってくるという構造である。歳出額は予算案次第で、いくらでも大きくも小さくもなりうる。政府の負債がどれだけあろうが、それから直接予算が制限されることはありえない。また、歳出を増やせば歳入は大きくなり、歳出を減らせば歳入は小さくなることも忘れてはならないだろう(特に不況が改善されれば、乗数効果は大きい)。

 

さて、次は少子高齢化するからという点に注目したい。その主張は、働く人が少なくなるので、非勤労層からも取る必要があるためということである。そうしないと勤労層の負担がどんどん大きくなるからというものだ。しかしこれは実に短絡的である。経済全体の構造も、少子高齢化によって起こるべき収入の変化についても考慮されていないのである。モノ(財やサービス)を供給する勤労層の割合が減るということは、一人一人が供給する必要がある量が増えることはある程度仕方ないことである。しかし日本のような超高齢化社会であっても、日本のような先進国においては負担で大変だということなどにはならない。よく喧伝されている、昔よりも一人当たりで支える高齢者が増えているという話は、寿命が延びて増えた高齢者を切り取っているからたいへんに見えるだけで、非勤労層と勤労層の比率ならば、僅かしか悪化していない。老人や専業主婦だった人、本来勉学に専念すべき学生を労働力として駆り出す必要は全くないはずなのである。すなわち、供給自体は難なく可能である。より多く供給すればより多くの対価を受け取ることができるという当たり前のことが実現できれば問題はない。

消費税でないと、貯めこんでいる高齢者から税を取れないからといったおかしな主張もある。これは全く目先のことしか見えていない愚かな話だ。簡単に説明すれば、消費税があろうとなかろうと老人も消費をするわけで、モノを購入した時点で税を取らなくても、売った人間の収入から税は取れるということである。

 

消費税の作用を述べれば、消費税は実体経済から取引の度にお金を失わせる。その結果は、企業であれば売り上げが減り、国民の収入が平均的に減少するのだ。これは実際に、反動減とは別に、増税の度に観察されている。また、国民の収入が減少すると需要が減るので、経済成長率は低下するはずであるが、これもまた毎回観察されている。

一方、少子化の最大の原因は、若者の非婚化である。そして非婚化の原因が、若者の低所得化であり、非正規雇用化だ。これはデータによって証明された事実である。とすれば何のことはない。消費税こそが、少子化の強い要因ということになる。

 

以上のように、少子高齢化に対して消費税が必要というのは、短絡的な誤りであることが分かるだろう。少子高齢化が進むと考えられるならば、消費税はむしろ廃止すべき税である。これは自民党の大臣がいかに経済を理解していないかを示す話であろう。

新型コロナに関する議論を見ていると、モデルに関する間違った取り扱いが散見される。今まで経済学におけるそれを批判してきたが、とても批判できたものではないものも見かけるのである。そこで、まずモデルに関する基礎的な事項について書いてみようと思う。

 

論理的思考の基本として、帰納法と演繹法がある。

○帰納法とは、様々な事実、事例をまとめて、傾向や法則などを導く方法である。

○演繹法とは、前提となる事実から、必然的な結論を導き出す方法である。

これらは相対するものではなくて、それぞれが補完する関係である。演繹法でもとになる事実は、帰納法から得られたものであるし、演繹が適切かどうかをはっきりさせるために、帰納法で結果を確認する必要が出てくるだろう。そもそも大抵の物事はこれらを組み合わせて判断しているのである。

経済学にしろ、他の科学にしろ、法則性を分かり易くするために、抽象化して単純化する作業であるモデル化がおこなわれる。モデル化の際には数式が利用されることもしばしばだ。モデルによって将来を予測したり、何かに対する正しい対処法が導かれる。構造が分かれば、構造上の一部を変更することで、結果に影響を与えることができるだろう。また、モデル上のステップごとに、帰納的に正しいことが確認できれば、最終的に得られる結論に関して、より少ない例数による検証でも、確実性が上がる。(ところが、経済学においては、フリードマンの「実証経済学の方法論」という論文で、結果が正しければモデルの途中の構造を軽視してもよいかのような主張がおこなわれ、その後の多くの経済学者が影響を受けている。しかしそれではモデル化をする意義自体を否定するようなものである。有名な木に茂る葉の配置の話はそれがいかに愚かなことかよく分かる事例だ。「植物の意識」によってそれが起こると考えれば、全く応用が効かないであろうし、例外に対応できない弱い理論になる)

モデル化に関しては、そのモデルを支える部品が重要になる。医学においては、例えば解剖学で示さえる人体の構造だったり、細胞の働きだったり等の事実が使われる。部品はその正しさが検証されている必要があるが、それだけでよいわけではなく、それぞれの限界、条件、誤差などは常に考慮されなくてはならず、極力多くのステップにおいて現実との一致が確認される必要がある。一方、経済学においては、基礎付けと称して、ミクロ経済学が使われてきたが、これには大きな問題がある。個々の部品としてあまりにも現実離れしているだけでなく、全体として理論通りになっているかどうかの検証も個々のステップの検証もほとんどなされていないのである。これはどうしようもないこと(経済は複雑なので仕方ないなどという言い訳がしばしばなされる)ではなくて、拙い部品(均衡や極端な単純化)を捨て、正しい部品(ポストケインジアンの貨幣論や価値論)を採用すれば、(MMTerがリーマン・ショックを正確に予測していたように)実用性は格段に上がっていくだろう。

 

さて、今回もここまでは前置きである。今回は、最も馬鹿げた主張である上久保靖彦氏の主張を取り上げる。松田学氏(元財務官僚)なども全く上久保氏の言っていることを信じきっているようである。

 

上久保氏の主張を簡単に整理すると

新型コロナウイルスには武漢で変異した3つの型があって、その変異した順からS型、K型、G型(最初にS型が発生し、それが変異したものがK型。武漢でさらに変異した感染力の強い型がG型)とすると、毒性が強く重篤なG型が日本に入ってくる前に、S型、K型が前もって日本に入ってきていて、集団免疫(高率で感染していて、過半数前後の人が免疫を持つ)を形成しているという話である。日本は中国からの渡航の制限が遅かったので、K型が入ってきたけれど、ヨーロッパや米国は、K型が入ってくる前に制限したので、K型による免疫がつかなかった。S型だけの免疫を持っていると抗体依存性免疫増強で、重篤化する。

そのようなことが起こっているという根拠は、インフルエンザの発生が減少していること。新型コロナが流行し、ウイルス干渉によりインフルエンザが減少したとしている。

日本での抗体陽性率が低かったが、T細胞系の免疫を調べたり、抗体のカットオフ値を正しく設定すれば、正しい値(もっとずっと高い陽性率)が出るとしている。

 

まず、コロナウイルスの特徴を言えば、RNAウイルスであるために遺伝子の変異は起きやすい。しかしながら、遺伝子を修復する機能があるため、インフルエンザと比べれば桁違いに変異しない。むしろその変異は、追跡に役に立つくらいのものである。性質の変化は、全くないわけではないがそれ程多くはなく、一方、毒性が下がったり、感染性が上がったりする変異は、遺伝子レベルで検討され、大凡把握されている。S型とかK型と言われるコロナウイルスは、全く確認されていない。すなわちS型だとかK型などというものは、全くの想像の産物に過ぎないということである。

 

次に、インフルエンザの減少から、コロナの感染率を求めることはできない。ウイルス干渉という現象は、個々には観察されるが、マクロ的に他の感染症に影響を与えたというデータはない。同時にかかることが全くないわけでもなく(多くの同時感染も報告されている)、片方にかかればワンシーズンもう一方の感染を防ぐことなどもない。このように理論的にも感染率を求めることはありえないが、あるとして算出する式を作る場合は、十分な数のサンプルから数式を作る必要がある。しかし上久保氏はたった3年間のインフルエンザの発生数を図にして説明しているのだ。さらに言えば、それ以前の発生数を見てみれば、大きな変動があってコロナで増減するという考え自体おかしいか、おかしくなくても算出不能であることも分かるだろう。

 

ちなみに、インフルエンザは、鳥を宿主とし、人間の体からは1週間程度でいなくなってしまうウイルスである。人から人にうつるウイルスが発生すれば、一人から多くの人間に感染もするが(再生産数というのはあくまでも全体における平均の話である)、感染者が1週間誰とも接触しなければ、そこでなくなってしまう。そして高温多湿になれば感染力が激減する性質もあるので、暖かくなるとなくなるわけだ(他のウイルスも同じような性質を持っていると考えるべきではない)。野鳥と家畜、人間の距離から、人から人にうつるインフルエンザが発生するのが中国で、そこから世界中に拡散していく。もちろん、北半球から南半球に流行が移動し、そこから北半球に戻ってくる可能性もあるが、中国に存在するウイルスから予防接種の株が推定されることからも、それは流行のメインではない。また、今年は渡航規制があるために、全くインフルエンザが発生していない南半球の国もあるらしい(コロナが多くてインフルエンザが少ないわけではない)。蛇足だが、インフルエンザに関しての良書を薦めておく。

インフルエンザ・ハンター: ウイルスの秘密解明への100年

 

閑話休題。

コロナウイルスの抗体に関しては、感染しても、症状が出ても、検出されなかったり、有効と言われる抗体量以下にすぐに下がることも少なくないことは、既に調べられた事実である。だから抗体を測ってマイナスだからと言って、感染した既往がないとも言えない。そのため上久保氏の言うように、本当の感染率が高いことが絶対にないとは言い切れないという主張は一応ありうる。しかしT細胞の免疫を調べることによって、抗体陰性でも感染の既往があると考えられた人間の数は、スウェーデンの調査では、せいぜい倍程度なので、上久保氏が言うような高い感染率はありえない。また、日本での感染防止のための生活様式(日本型ロックダウン?)によって観察された患者減や、濃厚接触者の追跡調査からも、コロナウイルスには麻疹のような強力な感染力、拡散力がないことが分かるだろう。

 

結局上久保氏のやっていることは、インフルエンザの発生数のような疫学データから、根拠の無いモデルを組み立てているのである。それはあたかも前述の「葉の配置に関する植物の意識」と同じようなものである。既に述べたように、モデルを組み立てている部品は、架空のものだ。モデルのそれぞれのステップは、現実で検証されているどころか、むしろ現実に反する。ところが、一部の経済学者がやっているように、(十分なサンプル数によるでもなく)数式化することによって、物理学における強固な部品のような印象を与えようとしている。そして、ウイルス干渉だとか、抗体依存性免疫増強だとか、素人にはあまり理解できない言葉を持ち出すことで、細部まで理解しようとはしない素人を騙している。

 

このようなインチキに騙されないようにするために必要なことは、最初に述べたような基本に立ち返ることである。モデルに使われる各々の部品に関して、モデルで積み上げられる行程の一段一段に関して、そして最終的には全体として、実証的に正しいかどうか確認することが必要だ。今回の、上久保氏の主張に関しては、それが全く成り立っていないことは、説明してきた通りであり、松田氏は、そのような検証はおこなわずに、上久保氏が反論をおこなっているだけで、信用してしまっている。きちんと細かいところまで検証しないとどうなるのかというよい例だと思う。

 

若干蛇足であるが、経済学における同じような残念なモデルの例を示しておこう。それはマンデルフレミングモデルにおける変動相場制での財政政策無効の主張だ。簡単に書けば財政政策→金利上昇→通貨下落→経常収支悪化で無効、または効果が減弱されるというものだが、まず財政政策で金利が上昇するというクラウディングアウトは誤謬であり、次のステップの金利上昇による通貨下落金利上昇による通貨下落も、情報による短期の下落は観察されても、金利は為替を完全に決定する要因ではないため、正しいとは言えない。そして何より、財政政策をおこなってそれが金利や為替の変動によって無効化したという例が見当たらない(モデルが正しいというのであれば、大凡そうなることが観察されなければならない)のである。