在宅看取り前提で行っていた在宅介護中のジイ(父)が1月24日昇天
慢性腎不全、脳梗塞2回、破裂級大動脈瘤3個 etc.,
長年の大酒で血管ボロボロ、血管年齢は実年齢を遥かに超えていたようだった。
脳神経外科医や脳神経内科医は画像を見ながら呆れ果て苦笑した
天に召される1週間前くらいから、ジイの目元に青暗い影が見えるようになった。
それまで見たことがない生気のない目元。
一見元気はいいけれど、一気に体力が落ちたと思わせることしばしば。
そろそろ近いのだろうと思った。
前日は燃え尽きる直前の蝋燭そのまんま。
元気いっぱい、食欲いっぱい
そして翌日午前10時半、「胸が痛い」と言い始め、
「寝ときゃ治る」と言ってそのまま外出。
11時半、昼食をもって部屋に行くと様子が変。
訪問看護師に電話。
「脈を見てくれ」といわれるがうまくできない。
血圧計を使うが、エラー表示が繰り返される。
やってきた看護師が訪問医とやりとり。
とりあえず点滴でも打とうと血管を探すがなぜか血管が出てこない。
30分くらい「変ね。。。」と腕や足首を温めている間に呼吸が変わり
間も無く呼吸停止。
注射針を握ったままあっけに取られる看護師
訪問医もびっくり顔でやってきた
一年前の春、突然ジイの状態が悪くなり、複数回の意識障害、食欲不振、
歩行困難など手に負えない状態になった。
4つの診療科を定期的に受診していた国立病院に救急搬送すれば、
当直医から、
「どこも悪くない、高齢だからだ、医療付き施設に入れろ」
とカルテに診療拒否を書き込まれ、蹴り出され、
以後の診療は全て拒否と受け取るしか無かった。
しかし、4つの外来予約について全く触れなかったのがなんとも無責任でいやらしい。
そして当時のケアマネは、全く相談にならず取り付く島もない状態。
後日、ベテランと言われていたこのケアマネの様々な問題と事実が判明し、
基本的な介護・医療システムの知識さえ欠如していたことが発覚。
通院はできない、訪問医は見つからない、
ヨレヨレボケボケジジイを抱えて途方に暮れた。
一番悪いのは長年大酒飲みまくり、全身ボロボロになったツケ・後始末を
家族と医療機関に丸投げしたジイなのだが、
そうであっても無能な役所、辛辣な言葉を吐いた介護・医療・救急関係者たちにも
腹が立った。
その後、どうにか在宅での介護・診療・看取り体制を整えることができたのだが、
そんなある日、陰湿な態度で蹴り出された病院から電話がかかり、
「本当なら今日はMRIの検査日だったけれど、もう検査には来ないのか?」と言う。
「はあ
」
病院から蹴り出されるまでに言われたこと全て繋ぎ合わせれば、
「高齢者の治療なんて絶対やらない、
しかし金になる検査
だけは受けろ。」
という意味になる。
さすが患者の人権ガン無視、患者はカモネギ・金儲けの手段だけの病院
病院は検査で儲けると言われる証明を堂々をやったのだ
何年も前から、我が家の誰が亡くなっても、葬儀なし、海洋散骨と決めてあった。
訪問医が死亡診断書を書いて帰った後、葬儀社がすぐにやってきた。
そのままジイは翌々日の火葬日まで冷蔵庫行き。
私は、前夜から疲労が溜まった時に起きるふらつきが始まっていた。
最後の力を振り絞り、ジイの部屋の片付けをした。
何年もかけてガラクタまみれのジイの汚部屋を片付け、
最後の一年は必要最小限の物を一室にまとめ、それだけで回るようにした。
だから片付けは本当に楽だった。
捨てるものは行政のゴミ袋、
使えるものは後日ケアマネに渡せるようまとめておいた。
親が死んだのに涙一滴出ないし、全然悲しくもない。
訪問看護師たちがジイに最後のケアを行っている側で、
私はせっせと部屋の片付けをした。
平然と周りのものをゴミ袋にどんどん詰めていく私を見て
看護師たちは呆れていたことだろう。
葬儀屋さんも私のドライすぎる言葉に呆気に取られていた。
「葬式はしません。
ジイがたくさん写経をしていますので、それを棺に入れてください。
棺は家におきたくありません。
祭壇も花も遺影もいりません。
花束を自分で用意します。
遺骨は散骨までそちらで預かってください。
散骨の前日の連絡も必要ありません。」
(散骨は遺族の参加はなし、散骨後、葬儀社から報告が郵送される)
片付けを終え、そのまま倒れ込むように炬燵に潜り込み眠った。
ふと、今晩から食事の世話もおむつ替えも何もかもしなくていいんだと
思ったら気持ちがとても軽くなった。
翌日、県外から叔母と妹がやってきた。
「なんでもするから寝とき!」と言ってくれ
上げ膳据え膳、ふらつく私はそのまま寝ているだけでよかった。
91歳まで好き放題に生きて、最期はひどく苦しむこともなく、
側で看護師が呆気に取られていた。いい往生だった。
悲しいなんて誰も思わない、久々に会った叔母や妹と母と私四人で
おしゃべりを楽しんだ。
身内の介護・看取り経験者たちから
「後でどっと疲れが出るから気をつけてね」
と口々に言われた。
「悲しいでしょうね、寂しいでしょうね」
と言ってくれる人も多かったが、いつも言うのが
「全然悲しくないし、寂しくもない、涙一滴も出ない。
介護が終わり、今は体も気持ちもとっても軽くて楽、
私の方が棺桶に入りそうだった」
近所に偶然、あの病院もかかりつけ医(訪問医)も同じ人がいる。
普段挨拶しか交わさないのだが、先日、スーパーで偶然出くわし、
「かかりつけの先生が、娘さんがお父さんのことを本当によくやっていると感心していた」
と聞かせてくれた。
あの先生とはあまり会話が進む感じではなかったので、
必要最小限の言葉しか交わさなかった。
だから隣人の言葉に、思わずびっくり、
「え〜、あの先生が
」
隣人曰く、
「あの先生は一見ボヤ〜っと頼りなさそうな先生に見えるけど、
本当は最初一歩入った時から何もかもものすごくよく見ている。
だから私はずっとあの先生のところに行っている。」
ずっと「ジイの厄介さは誰からもわかってはもらえない」そう思っていたけれど
あの先生はわかってくれていたんだっと思った途端、涙腺崩壊しそうになった
最後に、ケアマネに悩み、介護関連動画で知った「特定事業所加算」。
これを算定しているケアマネ事務所を探して契約したケアマネさんはさすが頼もしかった。
最期の日、ケアマネに電話し、「ジイの様子から翌日のデイサービスは無理である」と
話している途中、「ジイの呼吸が変わった」と看護師の声。
ケアマネはその意味を察し、ジイの最期に立ち合えるようにと
車をぶっ飛ばしてやってきてくれたが間に合わなかった。
本当にありがたいと思った
そして後日、未使用の介護用品や使えそうな衣類を引き取ってくれ
必要な利用者さんたちに配ってくれた。
恐る恐る、「これもまだ使えそうで〜、これ暖かいからもし使ってもらえたら〜」
とか説明すると、ケアマネはとっても愛情深い表情で、
「利用者さんの中には生活に困窮されている人もいるから」
と嬉しそうに話され、とっておいた物を全部持っていってくれた。
そして後日、「必要なところに全部配り、皆さんがとても感謝され喜んでくださった」
とお礼の電話があった。
ジイは本当にいい人たちに巡り会え、いい人生を送った。合掌