古代鴨氏物語[拾]祖霊信仰と御阿礼の構造 | 東風友春ブログ

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死の穢れを嫌うとされる神社の立地が、松尾山稲荷山のように実は古墳の群集地であることは、これらの神社は祖霊信仰と無縁では無いことを物語っており、当然、松尾社での御阿礼神事とは先祖に対する祭祀に出発するものであっただろう。

ここでは、御阿礼の構造と祖霊信仰との関係について、私なりの解釈を記してみたい。

 

泰氏本系帳に云はく、正一位勲一等松尾大神の御社は、筑紫の胸形に坐す中都大神、戌辰年三年三日に、天下りたまひ松埼日尾に坐しましき。又、日埼岑と云ふ。大宝元年に、川辺腹の男、秦忌寸都理、日埼岑より更に松尾に請け奉りき。又、田口腹の女、秦忌寸知麻留女、始めて御阿礼を立ちき。其の知麻留女の子秦忌寸都駕布、戌牛年より祝と為り、子孫相ひ承ぎて、大神を祈り祭る。其より以降、元慶三年に至るまで、二百三十四年なり。

【本朝月令】惟宗公方(平安中期成立)「秦氏本系帳」より

 

秦氏本系帳には「秦忌寸知麻留女始立御阿礼平」とあるが、「御阿礼平」は祭祀場として日埼岑を指しているという説もあるが、平が「乎(を)」「木」の誤記である可能性もあり、「御阿礼木を立てた」という解釈が成り立つのも否定できない。

私は、この知麻留女が立てた「御阿礼木」とは、元々は松尾山上に立てられた柱や杭などの謂わゆる墓標みたいなものではなかったかと想像する。

祖霊が眠る山に立てられた一本の、山の杭の神、それが松尾に坐す「大山咋神」の正体ではないだろうか。

つまり大山咋の神とは、松尾山古墳群に葬られた被葬者の魂を神として祀り上げ、象徴的な表現として祖霊に神名を付したものであろうと考える。

 

 

そして、本朝文集(1686)「大宝元年秦都理始建立神殿、立阿礼齋子供奉」とあるように、この依り代の杭(御阿礼木)を野晒しのまま朽ちることを憂慮した秦都理が、祭祀の際の利便性も考慮して松尾山麓に神殿を建立し、御阿礼木を神殿内に移設したのが現在の松尾社であろう。

上賀茂社では、賀茂旧記「奥山賢木立阿禮、悉種々絲色、又造葵楓蘰嚴飾」とある通り、を杭(阿礼木)とし、葵や桂の枝葉や色とりどりの帛を飾りとして取り付けたようだ。

ところが、現在の御阿礼神事では阿礼木としての性質は杭にはなく、より小型の榊の枝葉となり、御生所から上賀茂社境内への神幸の際は、榊の枝葉(阿礼木)は杭から分離されて運ばれる。

これは時代が下るにつれ、神霊が宿るのは木の幹にあたる杭の方ではなく、実はの方に依り憑くのだと認識を変化させたからではないだろうか。

座田司氏氏の「御阿礼神事」(1960)によると現在の神事では「前面に長さ約四間の松丸太の尖端に榊の枝を多く結び付けたものを二本斜上に向け扇形に出す。これを休間木と称する」とあり、杭は「休間木(おやすまぎ)という松丸太がその名残となっているようだ。

 

 

しかしながら、古くは杭と枝葉は一体の阿礼木として取り扱われたらしく、なぜなら神霊の依り代には枝葉のついた樹木を利用したものであり、それは天岩戸の伝説に登場する「太御幣」が由来だと考えるからです。

 

天の香山の五百津眞賢木を根こじにこじて、上枝に八尺の勾璁の五百津の御須麻流の玉を取り著け、中枝に八尺鏡を取り繋け、下枝に白丹寸手、青丹寸手を取り垂でて、この種種の物は、布刀玉命、布刀御幣と取り持ちて。

【古事記】太安万侶(712)より

 

太御幣は、天岩戸に閉じ隠れた天照大神の復活を願って用いられたものである。

この太御幣はご存知のように、今日では神霊の憑り坐しとしての御幣となり、或いは諸々の神事に用いられる祭具として神社などで見ることができる。

御阿礼の儀式に太御幣に由来する阿礼木を立てたことは、天岩戸の故事に准えて、古墳の石室にこもる祖先の霊を神として再生する意図があったのではないだろうか。

延喜式には賀茂祭の条に「阿禮料、五色帛各六匹」とあることから、座田司氏氏は原初の阿礼木は木綿や帛を結びつけたものだったと述べているが、これも天岩戸の太御幣に取り付けられた白和幣青和幣に由来するのだろう。

一方で天岩戸の太御幣に取り付けられた勾玉が、よく副葬品として古墳に埋納されているのは、それらが死者の魂の憑り坐しの物実(容器)と成りうると古代人は考えていた節がある。

このように考えると、古墳とは被葬者を神として再生させる一種の装置のように思えてくるのだ。

 

 

さて、天岩戸の太御幣は眞賢木を根ごとこじ抜いて用いられているが、ここでもう一つ思い当たるのが、原初の阿礼木は杭ではなく、自然の木を根こそぎ抜いたものではなかったかという事である。

 

山城國風土記に曰く、伊奈利と称へるは、秦中家忌寸等が遠祖伊侶臣の秦公、稲梁を積みて富祐を有ちき。乃ち、餅を的と為ししかば、白鳥と化して、飛び翔りて山の峰に居り(伊奈利、子を生み遂に社と為しき。その苗裔に至り、先の過を悔いて、社の木を抜きて家に植えて命を祷み祭りき。その木蘇れば木を植えるを得、枯らば福あらじ。

【山城名勝志】大島武好(1705)より

 

伏見稲荷社は、秦都理の弟である秦伊侶具の創祀とされ、白鳥が舞い降りた稲荷山は、松尾山と同じく古墳が群集する古代の葬地だったことで知られる。

この山城国風土記では「而抜社之木家禱命也」とあるが、社の木を抜いて、これを家に移植して祭祀の対象としたことに、私は御阿礼神事の本質を見る気がしてならない。

もともと古代人は、樹木に神霊が依り憑いて御神木になったり、或いは木霊(こだま、すだま)が宿って祟りをなす木に変じたり、山鬼山の怪とでも言うような現象を生じさせることを知っていました。

そして、古墳や葬地に生えている樹木には、そこに埋葬された被葬者の霊魂が宿ると信じていたようだ。

山林で木材の調達を目的に主殿部として従事していた葛野県主秦氏にとって、山神や木霊を鎮め祀るのは必要不可欠なことであり、樹木に宿った先祖の魂を「山の神」として祀り上げ、山中での安全や氏族の守護を祈願したのが、この儀式の根本的な理由ではないだろうか。

しかし、稲荷社の方法では、樹木に神霊が宿っているかどうかは、葬地に生えている若木を移植して、根付くか枯れるかで判断するしかなかったようだ。

そこで、神霊の御生れ(出現)を神懸りして感応できる「齋子」「齋祝子」といった巫女(霊能者)を介在させて、初めて御阿礼の儀式が完成したと考えるのだ。