古代鴨氏物語[六]御阿礼神事 | 東風友春ブログ

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現在、上賀茂社にて行われている御阿礼神事について、座田司氏氏の著書「御阿礼神事」から儀式の概要を紹介したい。

尚、儀式の次第については、おそらく現在も変化ないものと考えるが、座田氏の著書が昭和三十五年(1960)当時のものであることを予めご理解いただきたい。

御阿礼神事は祭神を招霊するという儀式の性格上、一般には非公開の秘祭であり、上賀茂社の宮司であった座田氏の著書以外に詳しく知る手掛かりが無いからだ。

 

 

先ずはこの儀式の場所についてだが、上賀茂社後方には「丸山」という標高約152mの小山があって、その丸山を背に、東は蟻ケ池(阿禮ケ池)から南流する御物忌川、西は加茂川から分水した御手洗川、そして御物忌川と御手洗川の合流点に位置する上賀茂社本殿を南端として区切られた台地を「御生野(みあれ野)と呼んでいる。

御阿礼神事は、この御生野の一角にある「御生所」と称する場所にて、毎年神籬を設けて執り行われる。

また、御生野には御阿礼祭の日に斎王が入御されたと伝える「神館」跡があり、現在もその礎石が残っているらしい。

斎王とは、「帝王編年記」(南北朝期)によると「弘仁九年(819)戊戌五月以皇女有智子内親王始置賀茂斎院と記され、嵯峨天皇皇女の有智子内親王が参仕されたのが最初であり、この斎院制はその後約四百年続き、「齋院記」「後鳥羽院皇女禮子内親王元久元年(1204)卜定」とあるのが最後の斎王で、「百練抄」(鎌倉後期)によるとこの禮子内親王は建暦二年(1212)に退下され、斎王は廃されたのかこれ以降の記録には見えない。

皇女が斎王を勤められたのは賀茂祭が勅祭になった事に関係すると思うが、松尾社の由緒に見える「齋子」下鴨系図に記される「齋祝子」らが斎王の原点であり、おそらくこれらの女性は神霊の降臨を感応できる巫女の役割を有していて、賀茂祭の重要な祭儀である御阿礼神事にとって不可欠な存在であったのではないかと考える。

ちなみに御生所や神館跡は、現在は「京都ゴルフ倶楽部上賀茂コース」の敷地内であり、ゴルフ会員や関係者でない限り気軽に立ち入ることはできない。

京都ゴルフ倶楽部は、昭和二十一年(1946)に進駐軍(GHQ)の発案により、本殿後背地の原生林や神域(約8万5千坪の境内林)を開発して出来たゴルフ場である。

この時、上賀茂社家は激しく抵抗し、結果的に御生所はここの17番ホールグランド脇に残され、御阿礼神事の継続だけは何とか守ることができたのだそうだ。

 

 

座田司氏氏によると、神籬は南東南を正面として御生所内に四間四方(約64㎡)の土地を区切り、高さ地上六尺(約1.8m)の杭を一辺に十二本、四辺で計四十八本を打ち込み、横三段に丸太を渡して縄を以って結え、内部が見れないように松・桧・榊などの樹枝を立てて、高さ約二間(約4m)に及ぶ神籬を厚く造り、葵桂の蘰を神籬の前面に飾り付け、又、「おすず」と称する藤蔓の皮で作った径四寸位(約12cm)の円座様のものを結び付ける。

そして神籬の中央に約四尺(約1.2m)くらいの杭を一本打ち込み、それに四手(紙垂)を付した五本の御榊(阿礼木)を立て、これを神霊の依り代とする。

また、阿礼木とは別に、尖端に榊の枝を多く結び付けた長さ約四間(約8m)の松丸太を二本、これを「休間木(おやすまぎ)」と呼び、神籬の中央の杭の根元から前面斜上に向けて扇形に出す形で設置する。

この休間木について、座田司氏氏は「これは朝鮮でいう『ソトフ』と同様これを目標として神が降臨されるとの観念から造られているもの」と説明しているが、これは先端に御榊を取り付けた杭が阿礼木(太御幣)として一体だったものから、榊と杭が分離されて変化した姿ではないだろうか。

 

神籬にはこの他、外部から見ても気付かれないよう、乾(西北)の隅に入り口を設け、神籬の前面より約一間半(約3m)計り隔った所に、左右に白の御影砂を用いた高さ約一尺(約30cm)程度の立砂を約一間半の間隔を置いて二基設ける。

この立砂は神山を模していると考えられ、立砂の頂に挿した松の葉を阿礼木に見立て、かつて神山頂上に御阿礼神事が執り行われていたことを想像させる。

座田司氏氏は、原初は神山の磐座に一本の阿礼木を立てていたが、延喜内蔵寮式(927)の賀茂祭の条に「阿禮料、五色帛各六匹、上社四匹、下社二匹と記載されていることから、平安時代には阿礼木が四本となり、さらに上賀茂社の神職が「神主、禰宜、祝、権禰宜、権祝」の五官が置かれるようになってから、阿礼木が五本になったのだろうと述べている。

また、阿礼の料を「五色帛」とするのは、賀茂旧記「悉種々絲色とあるのに基づき、阿礼木に結び懸けられた幣帛が古くは五色に彩られていたことを示している。

 

 

さて、御阿礼神事の式次第であるが、この祭儀が「神の降臨、遷霊、神幸、頓所仮駐」の四つの要素から成っていると記されている。

この内「神の降臨」に関して、座田司氏氏は「古来神籬を完全に鋪設して清祓を行えば、神は自ら降臨されるとの信仰が存している」として、賀茂旧記「取奥山賢木阿禮、悉種々絲色、又造葵楓蘰嚴飾」と記される通り古例に則して神籬を設置すれば必然的に達成するものと考えている。

御阿礼神事は、五月十二日の午後八時に社務所大玄関前から「宮司以下祭員、矢刀禰、神人、雅楽役、別当代その他の諸員」らが御生所に参向するのに始まる。

御生所では神籬に向かい礼拝し、奉幣行事の後、葵桂を配り各員これを烏帽子に挿して、献の儀(三献を通す)を行い、掴みの御料を進む。

この掴みの御料とは、座田司氏氏によると「熟飯に干物の鰩(トビウオ)を焼きてその肉を細くほぐし、それに「わかめ」を炙りて粉としたるものを交ぜ合わせて作った品」を掴み取って食するそうで、神人共宴とする直会が通常では祭祀の後であるのに対し、祭儀の前に行う食事を「柳田國男氏の説かれる所の、氏神祭に用いられる食い別れの式と同じような意味合いのものではなかろうか」と述べて、御阿礼神事が原始的な祖霊信仰の特長を微かに残している可能性に言及している。

 

 

そして、掴みの御料を済ませ、口と手を清めると、いよいよ「遷霊」の儀式に取り掛かるのである。

先ず燈火を滅し、矢刀禰五輩が御榊を宮司の座前に持ち来たりて、宮司を先頭に各祭員順次御榊に手を掛け、この時に宮司以下祭員五員秘歌を黙奏し、順次御榊の枝に三箇所に割幣(紙垂)を結び懸け、御榊を手にした矢刀禰は神籬の正面に回り、二基の立砂の外辺を三廻りする。

座田司氏氏は、神職によって秘歌を黙奏することを「呪文」と表現し、呪文、阿礼の御榊に四手を付すこと、立砂を三巡する遷霊行事は重複の嫌いがあるとしながらも、実際には立砂を三巡することが遷霊の本体であろうと述べている。

神山を模した立砂を廻ることは、その行為が神体山から神霊を招ぎ奉ることに繋がるとする信仰に由来するからであろう。 

立砂三巡の行事の後は御生所から上賀茂社へと「神幸」に進発する。

神幸では、矢刀禰五輩が御榊を棒持して進み、雅楽役が笏拍子を打ちながら秘歌を黙奏しつつ供奉して、上賀茂社北門(今はこの門は無い)から境内に入って楼門前を横切り、新宮神社拝殿を三廻りした後、新宮の門を出る。

この間、宮司以下の祭員五員は北門前にて待機し、神幸了るの報告を受けてようやく境内に入る。

その後、御榊二本は楼門内に入り、中門脇の棚尾社の大床に立て、他の三本は二鳥居を出て南下し、御所屋(外幣殿)の西南より東切芝内の御生所遥拝所(頓所)に立てる。

この棚尾社及び遥拝所への御榊(阿礼木)の安置が「頓所仮駐」であり、その後、宮司は本殿の御戸を開き、葵桂を献じ祝詞を奏上して(片山御子社も同様に行い)、御戸を閉じて社務所に戻り、直会が開かれるのである。

以上が御阿礼神事の祭式の概略である。