「神倭伊波礼毘古命」つまり「神武天皇」は、古事記に「坐二畝火之白檮原宮一、治二天下一也」とあるように、神武東征により大和を平定した後、「橿原宮」において即位した我が国最初の天皇です。
神武天皇の即位の日は、日本記に「辛酉年春正月庚辰朔、天皇卽二帝位於橿原宮一、是歲爲二天皇元年一」とあり、明治六年(1873)から「紀元節」として二月十一日に定められました。
ちなみに紀元節では、皇居での宮中祭祀の他に各地で神武天皇陵の遙拝式も行われ、明治二十二年(1889)にはこの日を期して大日本帝国憲法が発布されたが、戦後この祭日は廃止され、昭和四十一年(1966)に国民の休日である「建国記念日」として復活しました。
さらに大日本帝国憲法発布の翌年にあたる明治二十三年(1890)には、民間有志による神宮創建の請願を容れた明治天皇により、畝傍山の東南に皇室の祖先たる初代天皇とその皇后媛蹈韛五十鈴媛命を祭神とした「橿原神宮」が官幣大社として創建されました。
橿原神宮の鎮座地は、日本紀の「觀夫畝傍山東南橿原地者、蓋國之墺區乎、可レ治之」との記述から、橿原宮が畝傍山の東南にあったと推定され、高市郡畝火村には「字高畠」や「字階橋」など宮趾と伝えられた土地があったことから橿原宮趾に決定し、土地の献納や買収を経て神宮創建に至ります。
つまり表向き橿原神宮の鎮座地は橿原宮推定地であるが、実際には、神宮創建に先立つ明治九年(1876)に高市郡畝火村字階橋にて発掘を行ったところ、宮跡を裏付けるものは見つからなかったそうだ。
ところが、昭和十五年(1949)の「紀元二千六百年」を祝う記念事業を念頭に、昭和十三年(1938)に神宮及び外苑周辺の整備工事に伴う発掘調査が行われ、その地下から後に「橿原遺跡」と呼ばれる遺物が出現したのです。
橿原遺跡は、縄文時代後期(約4500~3300年前)から平安時代まで続く複合遺跡で、特に石器や土器に土偶など、縄文晩期(約3300~2800年前)に属する大量の遺物が出土し、西日本の縄文文化を代表する遺跡として知られている。
橿原遺跡は、橿原宮や神武天皇の実在を証明できるものでは勿論ないが、神話より導き出された紀元年より遥かに古い時代から、この地に人間の営みが繰り返されて来たのは確かなようです。
しかし、橿原神宮が創建される以前には、神武天皇を偲ぶものがこの地に何も無かった訳ではない。
日本紀は神武天皇が「畝傍山東北陵」に葬られたと記しており、本居宣長が「菅笠日記」(1772)の中で「うねび山よりは五六町もはなれて、丑寅のかたにあたれる田の中に松一もと桜ひと本おひて、わづかに三四尺ばかりの高さなるちひさき塚のあるを、神武天皇の御陵と申つたへたり」と述べているように、畝傍山の東北には「神武天皇陵」の存在が知られていました。
しかしながら、「菅笠日記」に記されている田の中の神武陵とは、現在の綏靖天皇陵(四条塚山古墳)のことである。
現在の神武陵は、松下見林の「前王廟陵記」(1778)には「陵は百年ばかり以来壊ちて糞田と為し、民其田を呼びて神武田と字す。暴汚の所為痛哭すべし。数畝を余して一封と為し、農夫之に登るも恬として怪と為さず、之を観るに及びて寒心す」とあるように「神武田」とも呼ばれ、本居宣長がこの地を訪れた頃の神武田は、四条村の塚山(現綏靖天皇陵)より目立たないものでした。
なぜなら、谷森善臣が「藺笠のしづく」(1857)に「ミサンザイとよぶ畑なるを、こぞ、公より田作ること禁めさせ給へるなりとぞ。此ミサンザイのうちに、高さ一尺許に円く残りたる小塚二つあり、北西の方なるは、めぐり三十歩許にて、雑木生ひ、南東のかたなるは、めぐり二十七歩にて、木も生ひず。此二塚の間、戌亥より辰巳に十七歩あり」と記すように、かつての神武田の様子は、ミサンザイと呼ぶ畑に高さ一尺(約30cm)余りの小さな塚が二つ残る程度だったからです。
ちなみにミサンザイとは各地の古墳の名称に見られ、一般的には御陵(みささぎ)の原名か転訛したものと考えられている。
また、谷森善臣の「山陵考」(1867)には、中條正言の安政二年(1855)の手記を引用して「開発修理作方等為致候砌、小丘有之候、松桜之木など穢多共伐取、薪に可致と持帰候処、忽家内不レ残死果」と記し、神武田は近隣の住民から「霊威之地」として恐れられてもいました。
さらに「多武峯略記」(1197)には、多武峰寺の泰善法師が、天延二年(974)にこの地で「我は人皇第一の国主なり」と名乗る神武天皇の霊と思しき者に遭遇したとする不思議な話を載せている。
旧記云、國源寺在二高市郡畝傍山東北一、天延二年三月十一日早朝、検校泰善過二彼地一、途中有レ人、頭戴二白髪一、身着二茅蓑一、告二泰善一曰、師於二此地一為二国家栄福一講二一乗一矣。泰善問云、公姓名亦住処何乎。答問、我是人皇第一国主也、常住二此処一。言訖不レ見。故泰善毎年三月十一日到二彼地一講二法華一。
【多武峯略記】建久八年(1197)より
ちなみに、この怪事により貞元二年(977)に藤原国光が建立したのが「國源寺」であり、「山陵志」によると「神武祠廟在二神武田地一、昔年水潦廟為二之所一レ漂、而後遷二大窪村一、大窪寺之趾有二國源寺一焉」とあるように、この寺は水難により神武田から現在地である橿原市大久保町の大窪寺跡地に移したそうで、神武田の小塚も実は國源寺の基壇跡だという説もある。
このように幕末にかけて天皇陵に関する書物が多数出版され、神武陵もこれらの論争の結果、地名に「ミサンザイ」及び「神武田」の名称が残っていることが大きく、文久三年(1863)に現在地である奈良県橿原市大久保町字ミサンザイに治定されている。
現在の神武陵は、明治三十一年(1898)の兆域拡大と参道の整備に始まり、紀元二千六百年祝典事業に伴い、橿原神宮と神武陵とは一体の神苑として、現在のような広大で立派な姿に変貌したのである。
しかしながら、古事記は神武陵を「御陵在二畝火山之北方白檮尾上一也」と記しており、畝傍山の北方の白橿の尾の上との表現が、平地に存在する神武田とは結びつかないと指摘する声もありました。
そして、彼らは畝傍山中の「丸山」こそ真の神武陵であり、古事記の記述に則していると唱えたのです。