【古代賀茂氏の足跡】氏神社(久我神社) | 東風友春ブログ

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賀茂社伝承にある「定坐久我國之北山基」との解釈について、神名帳には山城国愛宕郡の「久我神社」及び同国乙訓郡に「久何神社」が見え、久我という式内社が二ヶ所あるため、この久我国については様々な推測がなされている。

この二つの久我社の存在から久我国の範囲を京都盆地の大部分に充てる説や、日子坐王伝説に登場する「玖賀耳之御笠」仁徳紀に登場する「桑田玖賀媛」と結びつけて、久我国が丹波国(京都府北部)にまで及ぶとする壮大な説もあるが、賀茂社伝承上賀茂社鎮座の由来を示した縁起文と見るのが自然であり、ここは単に「自久我随彼川上坐定坐山城國之北山基」と書くべきところを書き誤っただけだろう。

山城国乙訓郡の「久何神社」は京都市伏見区久我に鎮座する久我神社に比定されており、一方、愛宕郡の「久我神社」を称する神社が現在京都市北区紫竹に存在する。

 

 

久我神社(上賀茂神社境外摂社)

所在地/京都市北区紫竹下竹殿町Google Map

御祭神/賀茂建角身命

 

久我社は「賀茂建角身命」を祭神とする上賀茂社の第八摂社(上賀茂社境外摂社)である。

久我社の名が記録に見えるのは、「三代実録」の貞觀元年(859)に山城国愛宕郡の「鴨山口神、小野神、久我神、高橋神」に正五位下を授ける記事が初見です。

しかしながら、神名帳記載の久我社や三代実録の久我神が、現在の上賀茂社摂社である久我社を指しているとは言い切れない。

なぜなら、この神社は古くより「氏神社」と称していて、久我社と称するようになったのは明治五年(1872)からのことです。

伴信友「瀬見小河」(1821)の中で「神名帳に、愛宕郡久我神社あり、此神社今詳ならずとぞ。今御祖神社の北に、久我神社とて摂社あり。本社のおとろへ給へるを移し来て祀れるにやあらむ」と述べており、この他、「雍州府志」(1686)「山城名勝志」(1705)にも「久我の社、本社の北に在り」と見え、「久我社」と称する神社が上賀茂の摂社ではなく下鴨社の摂社に存在していたようです。

「鳥邑県纂書」は、下鴨社摂社の「久我社」について「旧記に大二目命子孫等奉斎、旧図河合の西にあり、任部十二所の内、往古は乙訓郡に坐す、桓武遷都時下鴨に遷す」と記して、興味深い伝承を伝えている。

「賀茂神官賀茂氏系図」及び「河合神職鴨県主系図」「大二目命」の譜傳には「子孫等鴨建津身命社斎奉」と記されており、鳥邑県纂書の「久我社」はこれに対応したものと言えそうです。

この下鴨の久我社は、近世までは存在していたようですが、どこかに合祀されたか廃絶したかで痕跡を確かめる術もありません。

しかしながら、近年になって久我社を称する上賀茂の摂社より、古くから久我社と呼ばれていた下鴨の摂社の方が、式内社の久我神社の可能性が高いのではないでしょうか。

 

 

さて、「氏神社」に関してですが、「山城名跡巡行志」(1754)では「在紫竹北、即其所云大宮森、一名栢森、鳥居西向、拝殿社南向、所祭秘今属加茂とあり、一般には氏神社を称して「大宮」と呼んでいました。

このため「山州名跡志」(1711)では「大宮森、云同所神木、神殿西街道、洛陽テハ堀河西九條至、鳥羽續、緣此宮、大宮通號アリとして、氏神社の西は大宮通り(旧大宮通)に面し、この大宮通りを南に行けば鴨川と桂川の合流点のある鳥羽郷に至るので、古代賀茂氏との交通上の繋がりを感じさせる。

ちなみにこの「大宮通り」の由来は、大宮(氏神社)に通じるからとされるが、この道路は平安京の街路の「大宮大路」に続き、平安宮(大内裏)に接していたためとも考えられる。

式内社調査報告所収の「賀茂別雷神社由緒調書」によると「賀茂氏が本宮に奉仕すると同時に祖神として祀りたるものなるは明なるが当社をここに鎮祭せるは健角身命の墳墓の附近なるを以ての故なりと云ふ」とあり、当地には建角身命の墳墓の伝承があったらしく、氏神社が葬地と繋がりがあることを裏付けている。

そもそも「氏神さん」と言えば、日本人にとって大変馴染みの深い神だが、祭神が天神にしろ地祇にしろ先祖の何某の霊にしろ、氏族の祖霊を祀ることに変わりはなく、氏神社での祭祀とは現代人が墓参りする感覚と大差ない。

しかし「雍州府志」(1686)では「大宮」の条に「凡そ、大賀茂の社家・氏人の子孫、首服を加うる日、先ず、此の社に詣す。神職を勤むる人は、天の児屋根の命の苗裔、中臣余流なり。故に、先ず、此の社に詣す。世に誤って大賀茂土人の氏の神となす」と記載し、賀茂氏の氏神であることに疑義を唱えています。

しかしながら、座田司氏氏は「賀茂社祭神考」(1972)の中で「本社は古来一に氏神社と称しているが、それは言うまでもなく、賀茂県主族の祖神を祭る神社なるが故である」とし、氏神社は当然「賀茂の氏神の社」であると主張している。

その理由に上賀茂社では、嘉元年中(1303~1306)の年中行事を記録した「嘉元年中行事記」という古文書を保管しており、その中に氏神社の祭が含まれているからだ。

 

 

今月はじめの申は、氏神まつりの御神事也。少氏人十人まいとに参る。其姿をみをきる。二どの御料はてて、おこなう御神事也。まづまいと社司等神主の家にあつまる。ちいさき馬、神馬としてさきにひく。十人のまいとさきとして、にはをまわして、氏神へ参。

【嘉元年中行事記】(鎌倉時代成立)※「賀茂社祭神考」より引用

 

現在、氏神社の例祭日は四月一日十一月一日だが、以前は四月と十一月の「初申日」としており、春の氏神祭は葵祭(賀茂祭)の直前に行われていたようだ。

座田司氏氏は、氏神祭「俗に食い別れといふが如き式も見られない」ため、祖霊信仰の特長を失ってしまったと見る一方で、御阿礼神事が「祭を行ふ直前に、御生所の前で三献を通し、掴みの御料といふものを食して後、手を洗ひ口を漱いで、祭に取りかかること」から祖霊信仰の特長を微かに残しているとして、氏神祭と御阿礼神事との間に祖霊信仰という共通性を感じながらも、御阿礼神事が賀茂祭との関連を深めた結果、氏神祭は切り離されて「殆ど形式化せられた普通の平凡な形態」になったのではと推察している。

この祖霊信仰の特長とは、柳田國男氏が「山宮考」(1947)の中で、伊勢神宮神官家の先祖の祭りを「自分が最もかはって居ると思ふことは、此振舞の食事がすべて祭の前の行事であること」と紹介しており、神人共宴とする直会が通常は祭祀の後であるのに対し、祭祀の前に行う会食を「斯ういふ食別れとも見るべき神人別途の饗膳」と表現したものである。

祖神への祭祀はその氏族にとって最も重要なものであり、神社での殆どの祭礼が実は祖霊信仰に端を発すると仮定するなら、氏神祭と御阿礼神事に共通性を感じるという座田司氏氏の指摘は大変鋭いものと言わざるをえない。