古代鴨氏物語[九]賀茂氏の葵と秦氏の桂 | 東風友春ブログ

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ご存知のように、上下賀茂社の神紋には「双葉葵」が使われている。

賀茂社の神紋が葵紋である理由は、賀茂祭において葵の葉が用いられることに因むものだろう。

賀茂祭を現在では「葵祭」と称している。

これは、勅使や供奉者の衣冠、牛車や牛馬にいたるまで、すべて葵の葉で飾るためこの名があるとされる。

しかし、葵祭とも呼ばれる賀茂祭だが、実際には葵の他に、の葉も用いている。

現在も賀茂祭には、牛車の簾の上部に十数本の桂の枝に葵をつけて飾ったり、神前の御簾に葵を吊った桂の枝を刺したりしているのだ。

 

 

さて、葵と桂の葉は、ともにハート型の葉で非常によく似ている。

桂の葉は、希少種である双葉葵の代用として、補助的に加られていると見なすこともできるが、賀茂旧記「令彼神祭用走馬并葵蘰楓蘰此之縁」と記される通り、古式に則って祭礼に用いられている。

また、座田司氏氏の「御阿礼神事」(1960)によると、現行の御阿礼神事においても「葵桂は烏帽子に挿す」とあり、賀茂旧記には別雷神「造葵楓蘰嚴飾待之」と告げたとされる神事の次第が、現代に至っても忠実に守られている。

ちなみに賀茂旧記「葵蘰楓蘰」とは、葵の蘰および桂の蘰であり、この「(かつら、かずら)」とは、アポロン神の「月桂冠」の如く、つる草や花などを輪にして頭上に戴く飾り物のことで、もっと古くは、日本紀「皇軍結葛網、而掩襲殺之、因改號其邑葛城とあるように、主につる草などを綱状に編んだものを言い、また、その材料となる葛や桂などの草木をも「かつら」と呼んでいたようだ。

そして、この葵と桂を結びつけたものが、葛野の地であり、秦氏の存在だったのだろう。

 

而して鴨氏の人、秦氏の聟と為る。秦氏、聟を愛びむとして鴨祭を以ちて譲り与ふ。故、今に鴨氏、禰宜として奉祭る。此れ其の縁なり。鴨祭の日に楓山の葵を頭に挿し、当日の早朝、松尾社司等、頭に挿す料を齎たしめて参りて内蔵寮に候ふ。祭の使、既に来りて楓山の葵を庭の中に置く。詔戸申す使等、各頭に挿して出立つ。禰宜祝等、禄物を賜る。又、馬を走せて近衛二つ謝幣を捧げ、禰宜祝と倶に松尾神社に参る。是れ乃ち父母子の愛の義、芬芳しく永く存る心なり。

【本朝月令】惟宗公方(平安中期成立)「秦氏本系帳」より

 

本朝月令「秦氏本系帳」から引用して、賀茂祭の日の早朝に、松尾神社(現在の松尾大社)の社司らが「楓山之葵」を内蔵寮に持参し、祭使はそれを挿して出立すると記している。

聖徳太子伝暦(917)葛野大堰「楓野大堰」桂林「楓林」と記し、古代には葛野を「楓野(かつらの)」とも書いたようで、楓山も桂山もそう呼べるような場所は見当たらないが、ともかく「楓山之葵」は、葛野の山で採取された葵とでも解釈すればいいだろうか。

しかしながら、松尾大社の例祭には古来「葵祭」の称があったらしく、現在でも各社社殿・神輿・神職の服装に至るまで葵と桂の葉を飾るので、ここでは「楓山之葵」を「桂と葵」に置き換えて考えた方が良さそうだ。

なるほど上下賀茂社の双葉葵とは若干図柄が異なるが、松尾大社の神紋も葵紋である。

山城風土記逸文には「時に一つの湯津桂の樹あり。月讀尊乃ちその樹に倚り立ちき。其の樹の有りし所を今、桂の里と號く」という伝説があって、桂木は、月読尊の御神木であり、葛野という地名の語源でもあるので、葛野県主だった賀茂氏にとって特別な意味を持っていたかもしれず、もしかすると葵と桂とは、賀茂氏と秦氏との関係を象徴しているのかもしれない。

 

 

松尾大社では、神幸祭を現在は、毎年四月二十日以後の第一日曜日に出御(おいで)、二十一日目の日曜日に還御(おかえり)して、還御祭の日を例祭日とするが、明治以前は三月中卯日に出御、四月上酉日に還御となっていたようで、賀茂祭とは同じ頃(本朝月令では松尾祭を四月上申日、賀茂祭を四月中酉日)に行われる祭礼である。

秦氏本系帳は、松尾社から賀茂祭に葵を提供する理由について「秦氏為愛聟鴨祭與之と記しており、秦氏が賀茂氏に賀茂祭を譲り与えたかどうかの真相は分からないが、「而鴨氏人為秦氏之聟也」として秦氏と賀茂氏が姻戚関係にあったのは、鴨県主家伝「小建黒彦(大山下久治良の子)の譜伝に「和銅四年(711)四月始被行祭也、黒彦弟秦都理松尾祠官也、本姓葛野県主、同弟伊侶具稲荷祠官也、賜秦姓とあるので、この「秦都理」のことを指していると考えられる。

秦都理は、秦氏本系帳には「大宝元年(701)、川辺腹男秦忌寸都理、自日埼岑更奉請松尾とあり、江家次第(平安後期)では「大宝元年秦都理始造立神殿と記している。

つまり松尾大社は、秦都理が創建したとされ、天武天皇六年(678)の創建とする上賀茂社と比較すると、上賀茂社の方が歴史はやや古い。

松尾社は、神名帳(927)「松尾神社二座、並名神大、月次相嘗新嘗と記される式内社で、祭神は大山咋神市杵島姫命の二柱。

しかし、古事記では、大山咋神を「次に大山咋神、亦の名は山末之大主神。この神は近つ淡海國の日枝の山に坐し、また葛野の松尾に坐して鳴鏑を用つ神ぞ」と明記されているのに対し、「迦毛大御神」を「阿遲鉏高日子根神」のこととして、賀茂別雷神は登場しないことから、もしかすると、大山咋神の信仰は賀茂神より歴史が古いのかもしれない。

また、太古の丹波国(京都府の亀岡盆地)は湖だったが、松尾明神(大山咋神)が保津峡を開削し、大堰川(桂川上流)を通して湖水を放流したという伝説が残っている。

秦氏は「葛野大堰」を築いて桂川の治水に成功し、仁徳朝には淀川に茨田堤が築かれ、難波堀江を通して大阪湾に繋げるなど、古代の水利事業が淀川水系において行われ、丹波国から山城国葛野を通り、摂津国から大阪湾に注ぐ水運が開かれるのである。

 

 

ところで、本朝月令では「中酉賀茂祭事」の条に「秦氏本系帳云、正一位勲二等賀茂大神御社、賀茂者…」と始まる賀茂縁起を載せ、さらにその後に「又云」として、秦氏版とも言えるような丹塗矢伝説を記載している。

 

又云はく、初め秦氏の女子、葛野河に出で、衣裳を澣ひ濯きし時に一矢ありて上より流れ下りき。女子これを取りて遷り来、戸の上に刺し置く。ここに女子、夫なくして妊む。既にして男児を生む。父母怪しみて、責め問ふ。 ここに女子答へて曰はく、「知らず」といふ。再三詰め問ひ、日月を経ると雖も、遂に「知らず」と云ふ。父母以謂へらく「然あれども、夫無くして子を生む理無し。我家に往き来せる近親眷属、隣里の郷党の中に、其の夫在るべし」と思ふ。これに因りて、大饗を弁備へて、諸人を招き集め、彼の児をして盃を執らしむ。祖父母命云ひたまはく、「父と思はむ人に献るべし」といひたまふ。時に此の児、衆人を指さずして、仰ぎ観、行きて戸の上の矢を指す。即便ち雷公と為りて、屋の棟を折り破りて、天に升りて去にたまふ。故、鴨上社を別雷神と号け、鴨下社を御祖神と号く。戸上の矢は松尾大名神これなり。是を以ちて、秦氏、三所の大明神を奉祭る。

【本朝月令】惟宗公方(平安中期成立)「秦氏本系帳」より

 

秦氏本系帳では、玉依姫ではなく秦氏の女子とし、場所も石川の瀬見小川でなく葛野河が舞台になっており、別雷神の父神も火雷神ではなく「戸上矢者松尾大明神是也」としている。

父母の再三の詰問に妊娠した女子が「不知」と答えること、女子の父母が「雖然無夫而無子之理也」とか「近親眷族隣里郷党之中、其夫應在」と考えたことなど、賀茂社伝承よりも心理描写が詳しく、現実味ある記述のように感じるが、伴信友「瀬見小河」(1821)の中で「この事、式の書、そのほか古書どもに見えたる事なし、これも例の偽説ときこえたり」と一蹴している。

確かに、姓氏録(815)には秦忌寸(山城國諸蕃)を「太秦公宿禰同祖」とし、大秦公宿禰(左京諸蕃)は「秦始皇帝世孫孝武王之後也」と記すことから、秦氏は「秦の始皇帝」の子孫を自負した渡来氏族であり、賀茂氏から入婿した秦都理の一族とは一線を画すはずだ。

従って秦氏本系帳の丹塗矢伝説は、明治以前は秦都理の直系が代々神職を勤めた松尾社神官家のみが有した伝説であり、その原形は賀茂社伝承にあると見て差し支えないだろう。

 

山城国葛野での水運と治水に成功していた秦氏との間に密接な関係を築くことは、主殿の職掌として薪炭の供給を担っていた葛野県主にとって、ごく自然な成り行きだったのかもしれない。