【古代賀茂氏の足跡】真幡寸神社 | 東風友春ブログ

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真幡寸神社は、神名帳の山城国紀伊郡に「真幡寸神社二座」とある式内社。

日本紀略には、真幡寸神は飛鳥田神と並んで「鴨別雷神の別なり」とあることから、賀茂社に関係のある神社だったことは理解できる。

 

山城国紀伊郡飛鳥田神真幡寸神、預官社例、並鴨別雷神之別也

【日本紀略】(成立年不明)弘仁七年(816)七月条より

 

真幡寸社は、もともと何の神が祀られていたのか不明だが、ただ、令集解(平安初期)には「真幡寸神賀茂別雷神之纛神也」と記されています。

纛神は、漢籍の三才圖會(1607)「纛以旄牛尾、為之、大如斗在乘輿衝上とあることから、大漢和辞典(1960)では「真幡寸は旗纛(はたおき)神の傳化したものとする古くからの説がある。纛とは旄牛(ほうぎゅう)の尾、あるいは雉の尾で飾った大旗のことで、國訓はたほこ」として、纛神の訓みを「ハタの神」もしくは「ハタオキ神」「ハタホコ神」だろうと唱えています。

このハタの神について、伴信友「瀬見小河」(1821)において「此神もしくは、当初の阿礼を齋ひ祭れるにもやあらむ」と記し、葵祭に先立って上賀茂社にて執り行われる御阿礼神事「阿礼木」の可能性を指摘している。

さらに、座田司氏氏は「御阿礼神事」(1960)の中で、真幡寸神は阿礼木に幡を結びつけた「阿礼幡」を祀ったものではないかと指摘している。

 

さて、真幡寸社の論社は「城南宮」及び摂社「真幡寸神社」そして「藤森神社」が挙げられる。

 

 

 

 

藤森神社

所在地/京都市伏見区深草鳥居崎町Google Map

御祭神/(中座)素盞鳴命・別雷命・日本武尊・応神天皇・仁徳天皇・神功皇后・武内宿禰

(東座)舎人親王・天武天皇

(西座)早良親王・伊豫親王・井上内親王

 

現在、藤森神社本殿に祀られる祭神は、中座・東座・西座を併せて十二柱であり、由緒(中座)では「神功皇后が新羅より凱旋の後、山城の国深草の里藤森の地を神在の聖地として撰び纛旗(軍中の大旗)を立て、兵具を納め、塚を造り、神祀りされた、それが当社の起こりである」と伝えています。

藤森社の中座に祀られている「別雷命・神功皇后」が真幡寸神となるのでしょうか。

ちなみに現在本殿脇には、神功皇后が纛旗や兵具を埋めたとされる「御旗塚」なるものが存在します。

又、藤森社の東座を「藤尾神」とも言い、藤尾社はもともと稲荷山山麓に鎮座していたが、山頂にあった稲荷神社(伏見稲荷大社)が山麓に遷ることになり、旧地を奪われた格好となった藤尾社は、古くから当地に存在した真幡寸社に合祀されて、現在の藤森社が成立したとも伝えている。

 

 

城南宮

所在地/京都市伏見区中島鳥羽離宮町Google Map

主祭神/国常立尊・八千矛神・息長帯日売尊

 

城南宮「都の南方に鎮まり国を守護り給う城南明神」として、平安京城の真南に位置し、桂川と鴨川の合流地にも近い。

城南宮の由緒では「上古、神功皇后(息長帯日売命)が、軍船にたて給う御旗八千矛神の御霊をつけて当地に納められたことによる」と述べているが、ここに云う八千矛神神功皇后がハタの神であり、かつての真幡寸神なのでしょうか。

つまり、古くからこの地に存在した真幡寸社に、国常立尊を合祀して成立したのが城南宮の起源なのかもしれません。

ところで、城南宮境内には別に「真幡寸神社」という名の摂社が鎮座しています。

 

 

真幡寸神社(城南宮境内摂社)

所在地/京都市伏見区中島宮ノ後町

御祭神/真幡寸大神・応神天皇

 

式内社調査報告(1979)によると「明治維新後式内真幡寸神社の古名に復して府社に列せられていたが、今次大戦後(昭和二十七年)ふたたび城南宮と改称、真幡寸神社はその境内摂社として城南宮本社殿の東隣に一画を劃して奉祀されることになった」と記しており、城南宮は一時、式内社「真幡寸神社」を名乗っていたようだが、真幡寸神は城南宮本殿から分祀され、境内に一祠を設けて現在は摂社として奉祀されている。

 

尚、伴信友「瀬見小河」にて「真幡寸神社は、横大路村の北、下鳥羽村に隣なる中島村に、城南神と称して、城南の森の中に在り、その東北竹田村に真幡寸辻と云ふ處もありとぞ」と記しており、城南宮の東北に位置する竹田村「真幡寸辻」と呼ばれた場所があったようだ。

 

 

そこは、現在の地名では「京都市伏見区竹田真幡木町」であり、真幡寸社が往古鎮座していた「真幡木里」とされ、今は「若宮八幡宮」という小社があり、昭和四十九年(1974)、そこに「史蹟 式内真幡寸神社の跡」Google Mapと彫られた石碑が建てられました。

東寺百合文書にも「山城国紀伊郡拝志庄」「真幡木里」もしくは「真幡里」と記載する文書が幾つか有り、真幡木里は真幡寸社に因む地名で、旧鎮座地と考えられる。

しかしながら、九条尚経作と伝わる「九条御領辺図」(16世紀頃)を見ると、「竹田里」「真幡木里」は別々の場所であるようだ。

 

 

この「葛野河(桂川)と賀茂河(鴨川)との会う所」は、河川の氾濫や鴨川の流路変更、中世には藤原氏が「城南水閣」を営み、その後白河天皇により大規模な「鳥羽離宮」が造営されたので、古代とは地形も村里の配置も異なっている可能性がある。

このため、神名帳には山城国紀伊郡に五社の式内社を載せるが、その中で現代においても存続しているのは稲荷神社(伏見稲荷大社)くらいで、その他の神社は廃社になったか合祀されたかで旧鎮座地すら判らず、後継社の特定も困難を極めるのである。

さて、藤森社と城南宮のどちらにも共通するのは、神功皇后軍旗であり、「ハタの神」である。

神功皇后は、三韓征討により秦氏が渡来する契機になった人物であり、このため秦氏が信仰する神でもある。 

ちなみに皇学叢書(1927)に載せる「神名帳頭注」によれば、真幡寸社は「中島村城南の森に在り、別幡神纛神を祭る」とあり、二座の神を別幡神と纛神としている。

日本紀略「鴨別雷神の別なり」の記載から、この「別幡神」を別雷神の誤記だろうとする説が一般的だが、飛躍した考えになるが、秦氏や神功皇后との関わり、そして阿礼幡から、真幡寸神とは「八幡神」の原始的な姿ではなかったかとすら思えるのである。