No ride,No 【life】. @FukadakeBase -72ページ目

No ride,No 【life】. @FukadakeBase

基本的にはバイク好きのネタですが
一見、道楽者に見えていながら
妻の精神的疾患を支える難しさなんかも書いています。

いろんな角度から見える「命・人生」がテーマです。

昨日は、転職を決意したところまで書きました。

今日は転職先が決まってからの話です。

【同居と安定?】

転職については「決意した。」と書きましたが

そこまでに至る過程で何となく次の就職先をネットで探したりはしてました。

まず条件となるのが、当たり前ですが中途採用をしている所。

さらに再就職の確率を上げる意味で、前職が製造業だったので同じく製造業。

交代勤務が妻へのストレスとなってしまっていたので平常勤務なところ。

収入は多いにこしたことはありませんが、再就職では一番優先度を下げました。

なかなか自分では見つけることが出来ずにいたところ

妻の姉の旦那、義理の兄の父が実は高校の校長をなされた方だったのですが

再就職の相談の場をセッティングしてもらって、ハローワークの副所長さんとコネがあり

地元で有力な企業を紹介していただくことが出来ました。

なんとか滑り出し良好の中、再就職後の生活がスタートします。

交代勤務→平常勤務ということで、手取りは半分まではいきませんが減りました。

今までのようにアパートを借りて暮らせるとは到底思えず

私も含め、妻の実家にお世話になることになりました。いわゆるマスオさんです。

ようやく家族が揃って同居できることになり

妻の病状もだいぶ落ち着いていたように思います。

それでも時にはまたメールで呼び戻されるようなこともありましたが。。。

でも全体的な印象として妻の病状はいい方へ向かいながら安定していたと思います。

私も今までとは違って仕事が定時で終了する事が多く

これまで以上に家族と触れ合う時間が多くなりました。

妻の病気について考える時間も多くなりました。

今も変わることはありませんが、妻の場合「寂しい」という感情が

発作的な衝動のキッカケになっていると気づきます。

妻の生まれ育った環境に住むことで、自然と妻の生い立ちが見え始めます。

それまであまり聞くことの無かった妻の幼少時代。

「小さい頃、いつも寂しいと思ってなかった?」

そう聞くと

「いつもお母さんが帰ってくる車を、流れるヘッドライト中から探してた。」
「休みの日はいつもお父さんはパチンコ、お母さんは旅行でいない時が多かった。」など

やっぱり幼い頃に寂しい思いをしていたようだった。

「寂しいって伝えたことある?」

「ない。たぶん我慢しなきゃいけないもんだと思ってた。」
「期待をすれば裏切られる。」
「裏切られるのがわかるから、はじめから期待なんかしない。」

妻の話す言葉は私にとってはショッキングだったというか

そんなに寂しい幼少時代を過ごしていたのかと思ったら、胸が痛んだ。

と同時に、妻を育てた両親に腹がたった。共働きで大変な状況なのはわかる。

金があるか、ないか、そういう問題ではない。

モノよりも思い出が子供にとってどれだけの宝になるか。

子供は親を選ぶことが出来ない。

世の中に本当の両親は世界中いくら探したって、2人しかいない。

そんな環境が妻を大人にした。

自己肯定感がない。自信が持てない。生きる意欲が乏しい。

育つ環境はその人の人生にとても大きな影響を与える。

親にはその大部分を担う大きな責任がある。

全ての原因がそこにあるとは言わない。

発症の原因は私が妻へ与えたストレスだったとも思う。

ただ人間としての骨格は、大人になってから簡単に矯正できるものではない。

これが妻の両親と共に暮らして、初めてわかった妻の心の傷でした。


今でもこの心の傷や、心に刺さったトゲを取り除けるかはわかりません。

でも、この傷を癒すことができたら何か変わるような気がしてるんです。



次回は【目標の共有】について書きます。

さて、前回の続き、妻を秋田の実家へ帰す決心をしたところからです。

【別居生活】

妻のリストカットが日常的なものなり、

精神科を受診して良くなるものと思っていましたが

落ち着く時間がだいぶ多くなったような気がする程度で

発作的なリストカットは数が減ってはいたものの続いていました。

私の有給もすでに使い果たし、会社に休む、早退すると言うことが

とても苦痛でたまらない日々。

とてつもない不安。

私の両親、妻の両親をアパートへ呼んで、今後について相談の場を持ちました。

本人の意志もあり、この場で実家へ妻の帰省を決めました。

秋田の実家へ帰ってからしばらくは、平穏に過ぎすことができたと思います。

私と長女は、岩手のアパートに残り、私の母が来てくれて

仕事から帰るまでの長女の世話をしてもらっていました。

そんな時間をどのくらい続けたのかも今はわからないというか

正直なところ、このアパートで生活した期間そのものが

私にとって苦悩の日々で、細かなことまで思い出せないのか、思い出したくないのか

そんな期間です。

妻も実家での生活で、育児から開放されて休めたこともあり

幾分調子が良くなってきた頃のことでした。

私の祖父(母方)が体調を崩します。胃がんのほとんど末期でした。

母は3人兄弟の末っ子で、いついなくなるかわからない祖父にそばにいたいと

アパートで暮らすことができなくなります。

保育園には預けていましたが、私の仕事が終わるまでは預かってくれません。

さらに、2歳を過ぎた娘を保育園に迎えに行った時には

「保育園どうだった?楽しかった?」などと聞けば「もう、終わったの。」。

長女も不安定だと保育園の先生から言われました。

どうしたか、長女を妻の実家へお願いしました。

実家での生活では妻もわかる環境での子育てのためか

今思えば私と離れて暮らしたことからかわかりませんが落ち着いていました。

私はアパートを引き払って、自分の実家から会社へ通うことにしました。

車で1時間弱の距離だったので、不可能ではありませんでした。

週末、必ず秋田へ向かいました。

次の週が日勤であれば、日曜日の午後、夜勤であれば月曜日の午前に戻るのですが

長女が尋常じゃないくらい泣くんです。

行かないでと膝にしがみついて泣くんです。

仕事の都合上、やむを得ず離れてお暮らしの方がたくさんいると思いますが

やっぱり家族は揃っていたいものだと強く思いました。

長女にこれ以上、寂しい思いをさせたくない。

私も転職を決意します。


次回は【同居と安定?】について書きます。
勢いがあるうちに更新します。

【発症~初受診】

発症というべきかどうかはわかりませんが。

それも仕事中の事でした。

妻からメールが届きました。

詳しい内容は覚えていません。

ただそこに綴られていたのは死を選択するという内容でした。

ただごとではないと、上司に相談して早退。

うちに飛んで帰ると手首から血を流している妻がいました。

幸いにして傷はよく言う躊躇い傷で、生死に関わるようなものではありませんでしたが

俗にいうリストカットが日常化してしまう前触れでした。

いろんな話をして、いくら妻の気持ちを聞いても基本的にポジティブな私は

死を選ぼうとする者の気持ちを理解することができないでいたと思います。

そういった事がリストカットを繰り返させてしまうに至ったのではないかと思います。

初めのリストカットから何度も仕事中にメールが来ては飛んで帰り

かといって何かできるわけではなく、妻をなだめようと必死に言葉を探し

時には責め立てるような言葉を発してしまったこともありました。

何度目かの時に、精神科を受診しようと本人に言いました。

そして初めて抑うつ状態にあると診断され、薬による療養が始まりました。

正直、私は当時、実際に診察に付いて行きましたが

精神的な病というのはほとんどが問診で

たぶん、自分が嘘でも調子が悪いといえば「うつ」と診断されるのではと

妻の病気までをも疑っているような状態でした。

寂しさを感じ、私に帰ってきて欲しくてリストカットをしているんじゃないか?

そんな疑いもどこかに持っていたことは確かです。

しかし、それを支える側の心境としては、メールで危険を感じると

今回はもしかしたら本当かもしれない。

今帰らずに後悔する事になるかもしれない。

あたり前のことですが、どこかで疑いながら、本気で心配しているのです。

とても仕事を続けていられるような心境ではありませんでした。

休んでしまったことも何度となくありました。

上司へ電話するのが嫌になり、私までもが潰れてしまうのか?

そんな不安がつきまとう日々。

ついに、妻を実家の秋田へ一時的に返すことに決めました。


次回は【別居生活】について書きます。