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1615年大坂夏の陣の後
豊臣方に通じていたとして
自害させられ、その後徳川家康より
この鷹峯の地を拝領します。
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本阿弥一族や町衆、職人など
法華宗徒仲間を率いて
移住し芸術村を作りました。
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光悦の死後、光悦の屋敷は
光悦寺となり、年に一度




瀬戸黒茶碗「ワラヤ」
道入赤茶碗「アカエボシ」
茶杓 光悦作
光琳筆 秋好中宮
茶入中興名物
瀬戸 野田手「宮城野」等々……
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当代一流の道具での
取り合わせはもちろん
庭、点心、半東など
全てが学びとなる茶会です。


瓢亭さんの点心
出汁の取り方から、ご飯の炊き方、焼き方など
茶懐石を全て教えていただき、
桐陰席にて茶事をさせていただきます。






利休居士の弟子
古田織部が光悦の茶の湯の師で
あったことを知れば
皆が師とは違った美を
表現している事に気づきます。

つまり茶の湯にしても
茶碗にしても

そのまんま
真似をしている弟子は
いないという事です🌿
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本阿弥光悦を知るためには
母 本阿弥妙秀の存在が何より重要です。

「金銀を宝と好むべからず」

「先祖の善心なるに増りたる宝のあるべきか」

として
つましく暮らすことを旨として
光悦を育てたとされています。


故に光悦は寛永14年(1637)
80歳で世を終るまで
「小者一人、飯炊き一人」の 
簡素な暮らしを貫いたと
伝えられています。