多磨霊園 八重桜 2023/4/7
ソメイヨシノに比べて開花期が1~2週間ほど遅く、ちょうどソメイヨシノが散るのと同じ時期に開花を始め、開花から散り始めまでの期間が比較的長いのも特徴。
ということで、今日の多磨霊園では,ソメイヨシノは散ってしまったが、満開のヤエザクラを。
多磨霊園(42) 中島知久平
中島 知久平(なかじま ちくへい)
明治17年(1884年)1月1日 - 昭和24年(1949年)10月29日
海軍軍人、実業家、政治家。中島飛行機(富士重工業を経て、現在のSUBARU)の創始者
政治家に転じてからは大臣や立憲政友会総裁を務めた
1884年(明治17年)群馬県太田市押切町の農家中島粂吉と母いつの長男として生まれた。
明治36年(1903年)10月、海軍機関学校入学(第15期生)。
1911年(明治44年)、中尉であった中島は、近い将来、飛行機から魚雷投下をして軍艦を沈めるという予言をした。
1912年にはアメリカに派遣され、飛行術・機体整備を学び、1914年(大正3年)にはフランスに出張し、飛行機の制作技術を会得。
その後、偵察機の研究を重視していた海軍航空技術委員会に、魚雷発射用の飛行機の開発をするべきとの意見書を提出。
1915年(大正4年)独自の魚雷発射機の設計を発表。
1916年(大正5年)中島機関大尉と馬越喜七中尉が、欧米で学んだ新知識を傾けて、複葉の水上機を設計した。
これが横須賀海軍工廠の長浦造兵部で完成され、横廠式と名づけられた。
航空の将来に着眼し、戦術上からも経済上からも
・大艦巨砲主義を一擲して新航空軍備に転換すべきこと、
・設計製作は国産航空機たるべきこと、
・民営生産航空機たるべきこと
の三点を強調した。
大正6年(1917年)、「飛行機研究所」(のちの中島飛行機株式会社)を群馬県尾島町に創設、兄弟で「飛行機研究所」を群馬県太田町に移転。
その後立憲政友会所属の代議士となり豊富な資金力で党中枢へ登り、新官僚や軍部寄りの革新派を形成して勢力を伸ばした。
多磨霊園(41) 川上俊彦
川上俊彦(かわかみ としつね)
1861(文久1)~ 1935(昭和10)
明治・大正・昭和期の外交官(スパイ)
明治から昭和にかけての日露・日ソ関係にかかわった、もっとも重要な外交官の一人
新潟村上本町飯野に村上藩士150石の川上泉太郎の長男として出生。
藩校「克従館」に学び、1884(M17)東京外語大ロシア語科卒。
外務省に入省、貿易事務官としてウラジオストク駐在中、日露戦争勃発で避難するロシア在留邦人の脱出を指揮。
1905(M38)1月旅順陥落時の乃木・ステッセル会談(水師営の会見)のロシア語通訳を務める。
1909(M42)10月ハルビン総領事として伊藤博文をハルビン駅頭で迎え、伊藤暗殺の際、流れ弾にあたり重傷を負った。
ロシア革命時に混乱するロシアを視察し、革命の状況を日本に連絡。
シベリア出兵後のソ連との基本条約締結に向けた交渉の中で、後藤新平に命ぜられソ連代表ヨッフェとの予備交渉にあたった。
ロシア後方かく乱謀略に従事してポーランド独立運動の指導者と接触し、その縁でポーランド独立後の1921(T10)初代公使に赴任。
その間ハルビン・モスクワ各総領事、また満鉄理事、ハルビン学院の創立への尽力などを歴任。
その後、1927(S2)北樺太鉱業設立とともに社長に就任、のち日魯漁業社長も兼ねた。
多磨霊園(39) 岸田今日子
岸田 今日子(きしだ きょうこ)
1930年4月29日 - 2006年12月17日
女優、声優、童話作家
本名同じ。血液型はA型。身長156cm
自由学園高校卒業。父は劇作家で文学座創設者の岸田國士、母は翻訳家の岸田秋子。
姉に詩人で童話作家の岸田衿子、俳優の岸田森とは従弟にあたる。元夫は俳優の仲谷昇。
自由学園高校在学時に彫刻家・本郷新の美術の講義に触発され、父の蔵書で戯曲に親しんだ。
舞台美術に興味を抱いて舞台美術家を志し、高校卒業と同時に文学座付属演技研究所に入り研修生となる。
研究所卒業後女優に転じ、1950年に『キティ颱風』で初舞台を踏み、これを機に芝居の虜になる。
1953年に今井正監督の『にごりえ』の端役で映画デビュー。
その後は演技に磨きをかけ、舞台を中心に映画、テレビ、声優と幅広い芸域を持つ。
1960年、『サロメ』で主役に抜擢され、以降『熱帯樹』など三島由紀夫演出作品の多くに出演。
他にもテアトロン賞を受賞した『陽気な幽霊』をはじめ、数多くの舞台で多くの大役、難役をこなす。
1963年、杉村春子ら文学座幹部の運営に限界を感じ、賛同者の芥川比呂志、高木均、小池朝雄、神山繁、山﨑努らとともに文学座を脱退。
同年、現代演劇協会付属の「劇団雲」の設立を経て、1975年には「演劇集団 円」の設立に参加。
近寄りがたい妖艶さを見せる一方、ユーモラスな役もこなす硬軟自在の演技は若い頃から評価が高かった。
舞台女優と並行して映画・テレビ出演でも第一線で活躍し、その存在感から時に怪優と称されることがあった。
1964年に『砂の女』で映画初主演すると、作品とともに世界中で絶賛され、ブルーリボン助演女優賞を受賞して、実力派女優としての地位を確立した。
『破戒』や『犬神家の一族』など、市川崑作品に多く起用された。
1982年の増村保造監督の映画『この子の七つのお祝いに』では、岸田演じるヒロインの母親役での怪演が話題となった。
独特の声と情感豊かな読みにより、1969年のアニメ『ムーミン』に声優として出演。
『ムーミン パペットアニメーション』では、ムーミンを含めた全てのキャラクターおよびナレーションまでを一人で演じ分けている。
この仕事で世間の子供たちにその声が愛され、気品と温かみがある声により大人からも支持された。
以降ナレーターとしても他に得がたい存在として、ドキュメンタリーからバラエティまで幅広く起用された。
著作も多く、エッセイから翻訳など幅広い分野で健筆を振るった。
特に児童文学、童話については造詣が深く、所属する「演劇集団 円」では、毎年年末にシアターΧで上演される、
幼児にも楽しめる舞台「円・こどもステージ」の企画も担当した。
2006年12月17日、脳腫瘍による呼吸不全のため死去。76歳没。
(Wikipedia)