多磨霊園(41)  川上俊彦 | ミリタリーイベント

ミリタリーイベント

過去の各種基地祭、航空祭の写真を掲載していきます。(2019/3/1)
ヤフーブログからの引っ越しです。

多磨霊園(41)  川上俊彦

 

川上俊彦(かわかみ としつね)
1861(文久1)~ 1935(昭和10)
明治・大正・昭和期の外交官(スパイ)
明治から昭和にかけての日露・日ソ関係にかかわった、もっとも重要な外交官の一人

新潟村上本町飯野に村上藩士150石の川上泉太郎の長男として出生。
藩校「克従館」に学び、1884(M17)東京外語大ロシア語科卒。
外務省に入省、貿易事務官としてウラジオストク駐在中、日露戦争勃発で避難するロシア在留邦人の脱出を指揮。
1905(M38)1月旅順陥落時の乃木・ステッセル会談(水師営の会見)のロシア語通訳を務める。
1909(M42)10月ハルビン総領事として伊藤博文をハルビン駅頭で迎え、伊藤暗殺の際、流れ弾にあたり重傷を負った。
ロシア革命時に混乱するロシアを視察し、革命の状況を日本に連絡。
シベリア出兵後のソ連との基本条約締結に向けた交渉の中で、後藤新平に命ぜられソ連代表ヨッフェとの予備交渉にあたった。 
ロシア後方かく乱謀略に従事してポーランド独立運動の指導者と接触し、その縁でポーランド独立後の1921(T10)初代公使に赴任。
その間ハルビン・モスクワ各総領事、また満鉄理事、ハルビン学院の創立への尽力などを歴任。
その後、1927(S2)北樺太鉱業設立とともに社長に就任、のち日魯漁業社長も兼ねた。