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ミリタリーイベント

過去の各種基地祭、航空祭の写真を掲載していきます。(2019/3/1)
ヤフーブログからの引っ越しです。

多磨霊園(47)  望月優子


望月 優子(もちづき ゆうこ)
本名:鈴木 美枝子、旧姓里見
1917年1月28日 - 1977年12月1日
女優、政治家。元日本社会党参議院議員
神奈川県横浜市出身
妹は元女優の中村雅子、加藤嘉は義弟に当たる(妹の夫)。

望月美恵子(後に望月優子と改名)の芸名でムーランルージュ新宿座などで初舞台を踏む。
1942年、川端康成の媒酌で鈴木重雄と結婚。
戦後は劇団民藝に参加。
1950年に松竹と契約。
1958年、『米 (映画)』での演技が評価されてブルーリボン主演女優賞受賞。
三益愛子と並んで「母物映画女優」と呼ばれた。

1971年参議院議員通常選挙に日本社会党公認で全国区から出馬(鈴木美枝子名義)し、初当選。
1977年の第11回通常選挙で出馬(望月優子名義)したが落選するまで1期務めた。

 

 

 

多磨霊園(46)  西尾忠久


西尾 忠久(にしお ただひさ)
1930年6月9日 - 2012年7月28日
ピーライター、評論家
鳥取県鳥取市出身
関西大学経済学部卒

関西大学経済学部在学中、谷沢永一主宰の同人誌『えんぴつ』に開高健らと参加。在学中に、三洋電機のハウスオーガン(PR誌)の文筆家として入社。
宣伝部に配属されると共に、家電向けPR誌の編集を担当。
未開だった日本の産業界・広告界でコピーライティングの実践をおこなうべく、当時アメリカで主流になりつつあったクリエイティブ手法、ノン・グラフィックを創始したことで知られるDDBのクリエイティブシーンを松本善之助らと、共に日本で初めて紹介。

1960年代には蟻田善造、梶祐輔らと共に、日本デザインセンターにコピーライティングのチーフとして就任。
1964年に広告制作プロダクション、アド・エンジニアーズ・オブ・トーキョーを設立し、1969年まで同社社長を務める。
1970年代頃までは、アメリカならびに諸外国のクリエイティブシーンやそれに携わる人物を紹介する一方で、以降は広告対象のモノ(香水やクルマなど)に関する書籍を多数執筆。

日本の広告史に大きな貢献を果たし、2003年に東京コピーライターズクラブの名誉殿堂入。
アド・エンジニアーズ社顧問の傍ら、また多摩美術大学で講師として、DDBなどの海外広告代理店のクリエイティヴから学んだ、広告コンセプトについての概論を40年近くにわたって、講義を担当。


墓碑は妻宗子の実家であるの西尾家の墓所の中に有る 

 

 

多磨霊園(45)  朝永振一郎、仁科芳雄

 

朝永 振一郎(ともなが しんいちろう)
1906年(明治39年)3月31日 - 1979年(昭和54年)7月8日
物理学者
東京教育大学名誉教授。

相対論的に共変でなかった場の量子論を超多時間論で共変な形にして場の演算子を形成し、場の量子論を一新した。
超多時間論を基に繰り込み理論の手法を発明、量子電磁力学の発展に寄与した功績によりノーベル物理学賞を受賞した。
東京生まれで、少年時代以降は京都育ち。朝永家自体は長崎県の出身。
京都帝国大学理学部物理学科を卒業。卒業後は京都帝国大学の無給副手に着任する。
湯川秀樹(旧姓:小川)とは中学校、高等学校、帝国大学とも同期入学・同期卒業であり、就職もやはり湯川秀樹と同期で、
机も同じ部屋にあった。
1931年、仁科芳雄の誘いを受け、理化学研究所仁科研究室の研究員に着任。
ここでマグネトロンの発振機構の研究等を行う。
ドイツのライプツィヒに留学し、ヴェルナー・ハイゼンベルクの研究グループで、原子核物理学や場の量子論を学んだ。




仁科 芳雄(にしな よしお)
1890年(明治23年)12月6日 - 1951年(昭和26年)1月10日
日本の物理学者。日本に量子力学の研究拠点を作ることに尽力し、理化学研究所(理研)に在籍して宇宙線関係、加速器関係の研究で業績をあげた。
日本の現代物理学の父である。岡山県浅口郡里庄町浜中の出身。

 

1955年、原子物理学とその応用分野の振興を目的として仁科記念財団が設立された。
この財団では毎年、原子物理学とその応用に関して著しい業績を上げた研究者に仁科記念賞を授与している。
理研の仁科加速器科学研究センターにも名を残す。
ニールス・ボーアの下で身に着けたその自由な学風は、自由で活発な精神風土を日本にもたらし、
日本の素粒子物理学を世界水準に引き上げた。仁科の主催する研究室からは多くの学者が巣立ち、朝永振一郎、坂田昌一が代表で、
孫弟子も多くいる。仁科の影響の及ばない日本の素粒子論研究者は少ない。



仁科家墓所、右が朝永振一郎墓石

多磨霊園は都営であるため規制が厳しく、基本的に一般墓地は6頭身の血縁までと定めており、仁科芳雄の墓所は血縁外の人物と眠る例外的な墓所。

 

 

 

多磨霊園(44)  吉川英治

 

吉川 英治(よしかわ えいじ)
1892年〈明治25年〉8月11日 - 1962年〈昭和37年〉9月7日
小説家
本名:吉川 英次(よしかわ ひでつぐ)
神奈川県横浜市中区出身

様々な職についたのち作家活動に入り、
『鳴門秘帖』などで人気作家となる。
1935年(昭和10年)より連載が始まった『宮本武蔵』は多くの読者を獲得し、大衆小説の代表的な作品となった。
戦後は『新・平家物語』、『私本太平記』などの大作を執筆。


墓所は文机の上に経筒が載ったデザイン

 

多磨霊園(43)  井深大

 

井深 大(いぶか まさる)
1908年(明治41年)4月11日 - 1997年(平成9年)12月19日
電子技術者、実業家
盛田昭夫とともにソニーの創業者の一人

早稲田大学理工学部卒業。
学生時代から奇抜な発明で有名であった。
卒業論文は「変調器としてのケルセル 附光線電話」。
大学卒業後、写真化学研究所(Photo Chemical Laboratory、通称:PCL)に入社、取締役であった増谷麟の屋敷に下宿。
学生時代に発明し、PCL時代に出品した「走るネオン」がパリ万国博覧会で金賞を獲得。
後に日本光音工業に移籍。その後、日本光音工業の出資を受けて、日本測定器株式会社を立ち上げて、常務に就任。
日本測定器は軍需電子機器の開発を行っていた会社で、その縁で戦時中のケ号爆弾開発中に盛田昭夫と知り合う。

1945年東京・日本橋の旧白木屋店内に個人企業東京通信研究所を立ち上げ。
後に朝日新聞のコラム「青鉛筆」に掲載された東京通信研究所の記事が盛田昭夫の目に留まり、会社設立に合流。
翌年5月に株式会社化し、資本金19万円で、義父の前田多門(終戦直後の東久邇内閣で文部大臣)が社長、井深が専務(技術担当)、盛田昭夫が常務(営業担当)、増谷麟が監査役、社員20数人の東京通信工業(後のソニー)を創業。