ミリタリーイベント -33ページ目

ミリタリーイベント

過去の各種基地祭、航空祭の写真を掲載していきます。(2019/3/1)
ヤフーブログからの引っ越しです。

多磨霊園(38)  ジョージ川口

 

ジョージ 川口(ジョージ かわぐち)
1927年6月15日 - 2003年11月1日
ドラム奏者。 本名:川口 譲治(かわぐち じょうじ)
「ジャズドラムスの神様」と呼ばれた

サックス奏者・川口養之助の次男として、京都府京都市に生まれる
6歳の時、単身赴任していた父に招かれ、一家で満洲の大連に渡った
満洲で見た音楽映画『聖林ホテル』におけるジーン・クルーパのドラムプレイに魅了され、ドラマーを志す
旧制大連市立実業学校工科、満洲飛行学校を経て、陸軍航空士官学校に学び、終戦時は陸軍少年飛行兵として訓練を受けていた
復員後、父のバンドに参加したのち、1947年に引き揚げ
同年三木鶏郎バンドに参加。米軍クラブなどで演奏活動を始め、1949年、東松二郎とアズマニアンやレイモンド・コンデとゲイ・セプテットに参加し、若手ドラマーとして注目されるようになる
1953年に松本英彦、中村八大、小野満とともにジャズコンボ「ビッグ・フォア」を結成
ジャズブームの火付け役となり、大衆的人気を獲得した
のちに越路吹雪のバンド「ロイヤルポップスオーケストラ」や、自身のリーダーバンド「ジョージ川口&スーパーバンド」のドラマーとしても活動した
2003年11月1日、脳出血のため亡くなった。満76歳没

 

 

多磨霊園(37)  ディック・ミネ

 

ディック・ミネ
(1908年〈明治41年〉10月5日 - 1991年〈平成3年〉6月10日)
徳島県徳島市出身のジャズ・ブルース・流行歌歌手、ギタリスト、俳優、タレント
訳詞家・編曲家としては本名の三根 徳一(みね とくいち)を名乗り、第二次世界大戦中には三根 耕一と名乗った
創成期のテイチクレコードの立役者で、日本のジャズ・シンガーの嚆矢として数多くの名演を残すとともに、日本の創成期の流行歌においても多くのヒットを飛ばした
トーキー以降の日活と同社が提携したミュージカル映画をはじめとして映画にも多く出演し、その後純然たる俳優としても活躍した

 

 

 

多磨霊園(40)  徳川夢声

 

徳川 夢声(とくがわ むせい)

本名は福原駿雄(ふくはら としお)
1894年(明治27年)4月13日 - 1971年(昭和46年)8月1日
弁士、漫談家、作家、俳優。ラジオ・テレビ番組などをはじめ、多方面で活動した日本の元祖マルチタレントとも言える人物
日本放送芸能家協会(現・日本俳優連合)初代理事長

 

 

 

 

多磨霊園(36)  マヌエラ(和田妙子)

 

本名・和田妙子
和田妙子(わだ たえこ) 

1911年~2007年5月18日
 
明治の終わりに朝鮮に生まれ、度重なる戦下に激動する時代を卓抜したダンスの才能と美貌をもって生き抜いた日本人。
国籍不明のダンサー「ミス・マヌエラ」としてフランス上海のフランス租界のクラブでスパニッシュを踊り、「魔都の花」として人気沸騰した。
市内一の繁華街、南京路の朝鮮銀行の壁には十八番の「ペルシャンマーケット」を踊るマヌエラの大きな写真が飾られた。
国歌を演奏しながら行進していた米海兵隊のマーチングバンドは、写真の前にくると曲を「ペルシャンマーケット」にかえたという。

1941ユニバーサル映画副社長のサーキンよりハリウッドに来ないかとスカウトされ、アメリカへ進出しようとしたが4日後の12月8日に真珠湾攻撃、日米開戦が始まったため夢が途絶える。 
1943上海日本人街にて「大和洋行」を設立するなどの実業家(実際は陸軍の工作員)であり、
熱烈のマヌエラのダンスファンであった和田忠七(当時の肩書きは上海在郷軍人会会長 同墓)と出会い、後に三度目の結婚。
1946和田と共に日本へ引き揚げる。
開戦時には連合国側のスパイと疑われて日本の憲兵隊に身柄を拘束され、終戦時には日本のスパイとして米国の陸軍情報部の取り調べを受けた。
帰国後東京に喫茶店「モレナ」を経営。
その後、内幸町に戦後初のナイト・クラブ「マヌエラ」を経営。
上海仕込みの英語と度胸で行儀の悪い進駐軍の兵隊をしかり飛ばすなど、東京の社交界で知らぬ者はいない存在となる。 
オープニングの司会をE・Hエリックが務めたこともあり、三島由紀夫、犬養健、麻生太賀吉、力道山、古垣鉄郎、マッカーサーなども顔をみせていた。
また「マヌエラ」は日本のジャズ・マン達の登竜門となり、ジョージ川口、マーサ三宅、前田憲男などが巣立っていった。
妙子は戦後日本のジャズの育ての母とも言われている。

波瀾に満ちた生涯を描いた作品は多く、小説『ルーズベルトの刺客』(著者:西木正明)のモデルや、自著『上海ラプソディー ~伝説の舞姫マヌエラ自伝~』など多数。

2007.5.18 東京都八王子市の病院にて心不全のため逝去。享年95歳。
クリスチャンのため、墓石は洋型、十字が刻まれている。

*2023年舞台『マヌエラ』が上演された。
主演は元宝塚歌劇団月組トップスターの珠城りょう。戦時中の上海で日本人という出自を隠し、
ダンサー「マヌエラ」として活躍した実在の女性、和田妙子の生涯をモデルにした物語。 
*マヌエラ - 燃える上海 恋する女(1999年、PARCO劇場) - 主演マヌエラ役は、天海祐希

 

 

多磨霊園(34)  松平康隆


松平 康隆(まつだいら やすたか)
1930年1月22日 - 2011年12月31日
バレーボール全日本選手、バレーボール全日本男子代表監督、日本バレーボール協会名誉顧問、
アジアバレーボール連盟終身名誉会長、国際バレーボール連盟名誉副会長、日本オリンピック委員会名誉委員
位階は正五位。2008年3月から“心の東京革命”推進協議会(東京都青少年育成協会)会長

1947年慶應義塾大学法学部政治学科に入学。バレーボール部の主将として、1951年には全日本9人制選手権大会で優勝、天皇杯を獲得した(学生チームとして戦後初)。
1952年、慶大を卒業、日本鋼管に入社、選手や監督兼主将として活躍。
1954年には、9人制の選手として全日本入り。
1961年、現役を引退し、6人制バレーを学ぶためにソ連に留学する(日ソ「スポーツ交流協定」の第1号として文部省からの派遣)。
帰国後、全日本男子チームのコーチを経て、1965年に同監督に就任。
1968年の第19回夏季オリンピックメキシコ大会で銀メダル、1972年の第20回夏季オリンピックミュンヘン大会では金メダルへと導いた。
1979年、日本バレーボール協会専務理事に就任し、1980年モスクワオリンピック世界最終予選では総監督。
同年、アジアバレーボール連盟会長に就任。
1989年 - 1995年12月まで、日本バレーボール協会会長。
1998年には、日本人で初めてバレーボール殿堂入り。
日本オリンピック委員会(JOC)副会長兼理事や国際バレーボール連盟(FIVB)第一副会長等を務めた。

 

 

 

墓所は正面に洋型墓石が二基建つ。左側が松平家

 

1971年日中バレーボール試合 福岡市九電体育館 大古、南、猫田の3枚ブロック