小説『北条政子』を久しぶりに読んで、隠れ銀杏のことを思い出しました。
2010年、大風で倒壊したあの銀杏、今年の2月に様子を見に行ったら、小さな枝がいっぱい出ていました。
写真は、この大銀杏の最後の紅葉となった2009年11月のものと、倒壊したニュースを聞いて駆け付けた2010年3月のものです。
また様子を見にいかなくては・・。
南区の寺 横浜の古刹、『横浜』の地名が記録されている宝生寺
案内板には、
平安朝時代末期の承安元年民部卿大僧都覺清法印により開創された。その後南北朝時代に覺尊法印が住職となってから急速に發展して地方随一の大寺院になった・・・とあります。
ちょっとした小山の上にあって、できたころは、この小山の下まで海があったのではなかろうかと思われます。運河を挟んで根岸方面にも小山の群があります。どうも、昔は山つながりで、間を切り崩し、道やら、運河やら造ったようにも思われます。
このお寺、子供のころは近くに住んでいながらセミを捕りに来ても、気にもしなかったのですが、重い歴史をもっているようです。
横浜市の歴史を伝える、偉大な寺のように思えます。寺林は天然記念物に指定された木々もありますが、大切にされているよりは、そっとほっぽらかしてある・・・そんな感じを受けてしまいます。
青龍山という山号だけあって、龍の伝説もの残っているそうな。いつまでも、ひっそりとしたまま残っていてほしいと思います。
案内板
神奈川県指定天然記念物
宝生寺・弘誓院の寺林は、タブノキ、スダイジ、シラカシなど神奈川県の主要な常緑樹によるまとまった林相が維持されている。
ここでは三つのタイプの常緑広葉樹林が見られる。台地から尾根にかけてのスダジイ林(ヤブコウジ-スダイジ群集)、谷状地のタブノキ林(イノデ-タブ群集)、それにクスノキ、シラカシなどの稙栽樹を中心とした樹林である。いずれも高木層にスダジイ、タブノキ、シラカシ、ケヤキ、クスノキが高さ二十メートル以上の樹冠を形成し、低木層にはアオキ、ヤブツバキ、ネズミモチ、イヌビワ、シロダモ、モチノキ、ヒサカキなど、草本層もベニシダ、イタチシダ、ヤブラン、キズタ、ツルグミなどが三十~七十パーセントの被度で生育して、安定した林相を形成している。
商店街や住宅密集地の中にあって、これだけ自然度の高い樹林が残されているのは、現代の奇跡ともいえるほど珍しい。県民の科学的研究や自然教育の場として、また自然の記念物として将来にわたって保存される価値が高いものである。
昭和五十五年十二月二十日 神奈川県教育委員会
案内板(○は読めず)
寶生寺青龍山寶金剛院○○真言宗(古義)に属する寺である。平安朝時代末期の承安元年民部卿大僧都覺清法印により開創された。その後南北朝時代に学徳ともに勝れた覺尊法印が住職となってから急速に發展して地方随一の大寺院になった。文明八年、小机城を包囲中の太田道灌小當寺あてに祈○と食料の○状に併せて禁制状を寄せた。また天文十四年に北條氏康から門前諸役免除の判物、天正十八年に小田原城○○中の豊臣秀吉から禁制状を送られた。さらに天正十九年には、徳川家康から寺領千石の朱印状を授けられた。慶長十四年伊豆相模せ成○○○ら○○真言宗法談所三十四院の一と定められ、近隣五十二ヵ寺の末寺を支配する本寺として認められた。
江戸時代には灌頂堂、客殿、山○、長屋門、鐘楼、經藏、弁天堂、寶篋印塔等が建立された。しかし、明治七年本寺の寺格を増徳院に移してから次第に衰徴し。多くの建物を失った。現在の本堂は延寶へ(一六八〇)年に建立された灌頂堂である。また梵鐘は元禄八年に鋳造されたもので、太平洋戦争中も特別保存鐘として金属供出を免れた。
山門は文久八年、鐘楼は昭和十二年に建立されたものである。なお當寺所蔵の多数の古文書、佛画は、現在神奈川県立博物館に寄託、順次展観されている。嘉吉二(一四四二)年領主により横濱村薬師堂兔として當寺あてに田畑の寄進を受けたが、これは「横濱」の地名のあらわれる史上最古の文書として有名である。本掲示の板は昭和初年まで境内の西北にあって横濱十名木の一として知られた通称「千年待つ」の餘材を使用したものである。
2006年4月30日 訪問
磯子七福神結願
青葉区のこどもの国線が走る周辺はのどかな雰囲気が漂います。学生時代(30年以上前か)に1年間だけ暮らしたことがありますが狭い道路と畑が広がる景色がボヤ~っと記憶に残っています。その記憶にある狭い道路を走りながら山のほうに目を向けると徳恩寺が見えて着きました。
本当に学生のころの目は何を見ていたのでしょう。ぜんぜん気がつきませんでした。畑に囲まれ、小山の中腹に見える姿はのどかな景色そのもののように思えます。
案内板
高野山真言宗 摩尼山延壽院 徳恩寺
徳恩寺は元々、延命院という草庵が十世紀末に結ばれていましたが、戦乱や自然災害により衰微し、廃寺寸前であったところ、建武二年(一三三五)、等海律師(一三七三寂)の手によって、高野山真言宗摩尼山延壽院徳恩寺として開創されました。
律師は、金沢文庫称名寺の実真阿閻梨の弟子でしたが、小机三会寺の中興開山と仰がれ、当山を御開創の後に、柿生・王禅寺で示寂された名僧であり、以来、徳恩寺は隆昌を極め、江戸中期には中本寺として近隣の真言宗寺院十三ヶ寺を統べる法談所でもありました。
殊に元禄十四年(一七〇一)には、江戸幕府の名老中であった柳沢吉保の一族である、恩田郷を治めていた柳沢信尹公より、鉄眼禅師の「大般若経六百巻」及び大名駕籠二丁のご寄進。また、奥方の念持佛である弁財天一躰及び弁天社を寄進建立されるなど、当山への帰依信仰にあつく、多大な貢献をされ、さらに信尹公の具申により、慶安二年(一六四九)には寺領七石の朱印地を賜りました。
本尊虚空蔵菩薩は、室町期の作と伝えられ、特に毎年十一月の十三詣・七五三の参詣には、ご祈祷をうける幼児や児童で盛況を極め、横浜虚空蔵として地域の人々に親しまれています。
寺宝の金剛薩?(土辺に垂)画軸は、当山第十九世開演僧正が、元禄年中に高野山より請来されたお大師さま直筆と伝わり、文政四年(一八二一)に檀信徒の寄附で補修されたものであります。
日本画壇で活躍される入江正己画伯の釈尊降誕図、江戸初期に描かれた涅槃図などの寺宝のほか、昭和四十三年十一月に本堂改修工事を竣工の折りに、事業を記念して、故鈴木憲一・小江ご夫妻にご寄進いただいた、小島一鶏・月岡英貴・蓮尾達雄・若林卓・入江正己・小島昇画伯によって描かれた堂内の襖絵は、訪れる檀信徒の目を楽しませています。
草庵の時代を含めれば千年の歴史がある古刹ということになります。
戦国時代、江戸時代とこの地区の中心的な寺院だったようです。
この近辺を知行した旗本は石丸家ですが墓所はもう少しこどもの国寄りの松岳院にあります。徳恩寺には彼らの名前を見ることはありませんでした。
2006年4月22日 訪問