新卒入社した会社が希望退職者を募っていると風の便りに聞いて、
(もしこの会社にずっと勤めていたらどうしただろう)
と、自分のもうひとつの「現在」を想像しました。
 
 私の性格からいって、あの時とどまったとしても結局は退職することになった可能性が高いですが、それはおいといて。
 退職金の加算に目がくらみ、ここで残ったとしても定年まで会社がもつかわからないし、今ならまだギリギリ正社員の仕事があるかも、と自分を過信して踏み切ったかも知れません。
 
 勤続20年近く、ちゅうねんになって初めての転職、それも時代はみぞゆうの不況(もう誰も言わなくなった)です。それがどれほど過酷なことか、想像の域を越えてしまい思考停止です。
 誰であってもちゅうねんになると順応性が鈍くなります。若いうちに転職とはどのようなことかを体験しておいたことはよかったかも知れません。もちろん定年まで1社に勤続できればその方がいいのですが。
 
 一方、勤続年数が長いことは転職市場においても評価は高いと思われますし、退職金加算もあって貯金もかなりできていたことでしょう。
 どっちがよかったのか、もうひとつの選択を試すことができないのでわかりませんが、わからないくらいだから現在に不満はないのでしょう。
 
 アスペルガー症候群診断受けたのが失業中だったので、もし1社に勤続していたらそういう機会もなく、ずっとトラブル撒き散らして、今も自分では気づかずにいたかと思うと、すごい恥ずかしくなってきます。
 やはりこれでよかったです。診断に至るために必要な選択だったのです。
 
 
 12月29日の記事。今が一番幸せ。
過去記事「気概メモ 」コメント欄より
「直す、治す、乗り越える、折り合う、共生する。まだふさわしい言葉に巡り合えていない」
 
 これを踏まえて現在の自分の状態を書いてみます。直ったのか、治ったのか、乗り越えたのか、折り合ったのか、共生できたのか、どんなものでしょう。
 
1 仕事覚えられない問題
 
 どこでも覚えられる自信はありません。それでも、
「テキストやカリキュラムがあれば覚えられる」
「OJTだけの職場にあたったら、質問しまくる」
「それで怒り出す人には説明しても無駄」
という目処がつきました。
 
2 仕事上の人間関係問題
 
 投票 の結果とコメントと実践により、距離の取り方がわかった気がします。次はもう少しうまくできそうです。次がないのが一番よいのですが。
 
3 仕事以外の人間関係問題
 
 友達づき合いを避け、買い物でどうしても会話が必要なら通訳を伴う、それができなければ筆談と、できるだけ問題を避けて通っています。それはそれでいいかなと思っています。
 
 直ったのでも治ったのでもなく、乗り越えも克服もせず、
「苦手なことはひたすら避ける」
で済ませています。これでブログ初期にボコボコにされましたが、自分の考えた方向性は正しかった、と改めて思います。この間ずっとリコーダーの練習をしていたら、私は何を得たでしょう。1曲くらいふけるようになったでしょうか。
 
 中谷彰宏の言葉に
「短所なんて直す必要はない、長所を伸ばせば短所も直る」
というのがあって、んな訳ねーと思っていましたがこれは本当でした。周りに認められ、心身の状態や生活が安定してくると、リコーダーでも吹いてみるかという気にもなります。吹かないけど。
 あきらめなくても試合は終わる けど、再開する試合もあります。回避したことに再び向き合う時が来たとしても、そこにいるのは昔の私ではありません。
 
 恐れていた会社の評価面接 ですが、チェックリストでどの業務をどれくらいできているかを自己採点し、ここをこうしたい、と伝える方式でした。一方的に言われるだけだと想像していたので準備が足りず、戸惑いましたが、こういうやり方もあるんだと思いました。
 どう評価されているのかちゃんとわからない不安はありますが、所詮それは、来年契約更新されるかどうかからしかわかりません。いつも評価面接で失敗しているので、上司がこのブログ読んだんではないかと思うくらいです。(まさか)
 
 運がよかった、では何の参考にもなりませんが、意志を越えた力 を信じたいです。私が書いたことを直接の知り合いが読むということはまずないと思うけど、回り回って返って来るということはあるかも知れない、なんてね。
 
 
 12月27日の記事。努力すればできる、と言っているだけでは一歩も進まないのだ。努力すればできるより、努力してできなかった方が100万倍価値がある。
 この企画、大元では今年やっていないみたいですが、当方では恒例(自分の中で)となっているので、今年もやります。自分の記事1年分を読み返すという作業はそれ自体が意味のあることです。今年は更新が激減したのでかなり楽でした。
 
1位 禁断のカテゴリーシリーズ (リンク先は最終回)
2位 パーソナリティ障害シリーズ (リンク先は最終回)
3位 選別される人々
 
 最初は単独記事で選考するつもりでしたが、そうするとベスト3が全部「禁断のカテゴリー」になってしまいそうでした。それくらい、このシリーズを書ききったことは印象深いことでした。
 今後こういう記事を書いていきたいので、その指針とも自信ともなりました。もしかしたら失敗することもあるかも知れませんが、この成功体験を大事にしたいです。
 
 読み返していてやだなあと思ったのは、最後に
「なお、〇〇というコメントはしないで下さい」
と入っているものです。これが最後に出て来るとだいなしです。書いた本人がそうなんですから他の人はもっとでしょう。
 よくできたと思える記事ほど、変なコメントが入りそうではあります。後々読み返すことを考えても、やはりコメント欄は塞ぐべきなんでしょう。そのことで失うもの以上に得るものがあれば、それは進化です。
 来年も、自分にとってのよい記事が書けることを祈りつつ。
 
参考: セルフセレクション2007  セルフセレクション2008
 
 
 12月26日の記事。2010年になってまだ3週間くらいなのに、3ヶ月くらい経ったような気分です。2009年は既に遠くにあります。
 ファーストフードショップ、ウェンディーズが12月31日で全店閉店する というニュースを受けて、行ってきました。
 10年以上前に1回行ったきりで、その時もコーヒーしか注文しませんでした。元々ハンバーガーは好きではなかったし、特にウェンディーズは高い、という情報がインプットされていました。 
 
 早速並び方がわからず、オロオロして恥をかきました。いかにも、今まで来たこともないくせに、閉店すると聞いて様子を見に来たやじ馬です。その通りなのですが。
 注文では無難に、ハンバーガーとポテトとドリンクのセットを頼みました。禁煙席が満席で、やむを得ず喫煙席に座りました。タバコ臭いのは仕方ありません。向かいに座ったビジネスマン風男性2人が、ウェンディーズ閉鎖について論じていました。
 
 値段はそう高いとは思いませんでしたが、おいしいとも思いませんでした。閉店しなければもう来ないでしょう。(また行く気か)味の好みで言えばモスバーガーやファーストキッチンの方が好きです。
 
 お店の人はみんな愛想よく、元気に接客しています。ほとんどアルバイトだと思いますが、この人達、大みそかで解雇なのかな、不況のさなか不安だろうな、 それとも親会社の経営する別な飲食店に移るのか、でもウェンディーズが好きで働いていた人達なんだろうな、最後の日には店長が
「今日でこのお店は閉店します、皆さんお疲れ様でした」
とあいさつしてみんなで泣くのかな、といろいろ妄想してしまいました。
 
 ウェンディーズはいつも通り営業していて、日常の光景と何ら変わらないけど、それは非日常です。何かが終わる時はノスタルジーな気分になりますが、翌日からまた日常が始まります。ここで働いている人にとっても、きっとそうです。
 と、自分の前職最終日 を思い出して、勝手にノスタルジックになったのでした。
 
 トレイの上に敷いた紙に
「ウェンディーズクルー募集」
の文字が残っていました。多分募集していないでしょう。
 
 
 12月23日の記事。この後もう1回行きました。年が明けてまた行ってみたら(しつこい)シャッターがしまっていました。
 昨日ミニブログにこう書きました。
 
人に助けてもらって当たり前だと思っている人間を助けたくない。
→障害者が人の手を借りるのに自責の念を持つ必要はないという話は。
→障害者は別。
という論にすごく抵抗がある。私はお前が嫌いだから、あるいはムカつくから助けたくない、でいいのに、
「人に助けてもらって当たり前だと思って」
と相手のせいにしている感じのところが。説教していた人もこう書いていたけど、こういう人は障害者にも努力の証明や自責の念を求める。多くの人は言葉の観念に対して具体的な場面を想定していない。
 
「人に助けてもらって当たり前だと思っている人間を助けたくない」
「障害者が人の手を借りるのに自責の念を持つ必要はない」
は、どちらも単独で見ればもっともな話で、大抵は別々に論じられています。たまに重なっても
「障害者は別でしょ」
と俎上にも乗りません。障害者のことを持ち出す方が、一般論に対して例外的なことを持ち出して屁理屈ウザい、という扱いです。障害者は例外だと思われている、社会的存在として扱われていない、ということです。
 
1 努力家で自責の念でいっぱいで社会に出ない人
2 カミングアウトして社会に出ている人
3 カミングアウトしないで社会に出ている人
 
 1が一般的に描かれている障害者像です。なぜか健常者は社会に出る障害者に対して異常に厳しいです。障害者に健常者と同じにできることを要求することが差別しないことだと思っている人が何と多いことでしょう。特に3は
「言ってくれないとわからない」
と逆ギレられるのですが、法的に障害者にはならないけれど健常者と同じでない人はたくさんいます。同じ困難に対して、障害ならいいけど障害でないなら許せない、という人は、障害であったとしても努力の証明や自責の念の表出を求めます。
 
 障害であるかないかではなく、違うものを排除していくのか、共生しようとするのか、こういう書き方をすると後者を選ぶ人がほとんどだと思いますが、マジョリティ側にも覚悟が必要です。マジョリティ側は
「健常者と同じにやってくれるんならいいよ」
くらいにしか考えていません。
 
 私は健常者社会の中で健常者として生きています。この人は障害者かも、と思えば大抵のことは何でもありません。しかしこう考えることはめちゃめちゃ非難されます。一般的には私の方が差別的なのでしょう。
 幸いなことに、私は他人が努力しているかどうか見てもわかりません。努力しているかどうか見ればわかるみたいなことを言う人がいますが、そんな能力がなくて本当によかったです。
 
2009年6月26日 選別される人々
 
 
 12月20日の記事。ここはまだ2009年。健常者にも障害者にも努力が足りないと責められ、健常者に反論すれば甘えている、障害者に反論すれば弱い者いじめと言われる。