昨日ミニブログにこう書きました。
 
人に助けてもらって当たり前だと思っている人間を助けたくない。
→障害者が人の手を借りるのに自責の念を持つ必要はないという話は。
→障害者は別。
という論にすごく抵抗がある。私はお前が嫌いだから、あるいはムカつくから助けたくない、でいいのに、
「人に助けてもらって当たり前だと思って」
と相手のせいにしている感じのところが。説教していた人もこう書いていたけど、こういう人は障害者にも努力の証明や自責の念を求める。多くの人は言葉の観念に対して具体的な場面を想定していない。
 
「人に助けてもらって当たり前だと思っている人間を助けたくない」
「障害者が人の手を借りるのに自責の念を持つ必要はない」
は、どちらも単独で見ればもっともな話で、大抵は別々に論じられています。たまに重なっても
「障害者は別でしょ」
と俎上にも乗りません。障害者のことを持ち出す方が、一般論に対して例外的なことを持ち出して屁理屈ウザい、という扱いです。障害者は例外だと思われている、社会的存在として扱われていない、ということです。
 
1 努力家で自責の念でいっぱいで社会に出ない人
2 カミングアウトして社会に出ている人
3 カミングアウトしないで社会に出ている人
 
 1が一般的に描かれている障害者像です。なぜか健常者は社会に出る障害者に対して異常に厳しいです。障害者に健常者と同じにできることを要求することが差別しないことだと思っている人が何と多いことでしょう。特に3は
「言ってくれないとわからない」
と逆ギレられるのですが、法的に障害者にはならないけれど健常者と同じでない人はたくさんいます。同じ困難に対して、障害ならいいけど障害でないなら許せない、という人は、障害であったとしても努力の証明や自責の念の表出を求めます。
 
 障害であるかないかではなく、違うものを排除していくのか、共生しようとするのか、こういう書き方をすると後者を選ぶ人がほとんどだと思いますが、マジョリティ側にも覚悟が必要です。マジョリティ側は
「健常者と同じにやってくれるんならいいよ」
くらいにしか考えていません。
 
 私は健常者社会の中で健常者として生きています。この人は障害者かも、と思えば大抵のことは何でもありません。しかしこう考えることはめちゃめちゃ非難されます。一般的には私の方が差別的なのでしょう。
 幸いなことに、私は他人が努力しているかどうか見てもわかりません。努力しているかどうか見ればわかるみたいなことを言う人がいますが、そんな能力がなくて本当によかったです。
 
2009年6月26日 選別される人々
 
 
 12月20日の記事。ここはまだ2009年。健常者にも障害者にも努力が足りないと責められ、健常者に反論すれば甘えている、障害者に反論すれば弱い者いじめと言われる。