もう1月3日で、明日からお仕事です。6連休の間、毎日たっぶり眠り、読書とネットに励み、大晦日には年越そばをゆで、3が日にお餅を食べ、初詣にも行 き、と充実した休暇を過ごすことができました。この思い出を胸に、また仕事中心の毎日に戻っていきます。次の休暇を心待ちにしつつ。
 今年は読書にもっと時間を割きたい、と昨年も書いたような気がしないでもありませんが、もうちょっとでいいからネットの時間を減らし、先人の言葉に接することによって人間の幅を広げるという気概が欲しいということです。
 読書は昔からしていて、本を読んでは現実を微妙に間違って捉えていましたが、その頃と違うのは、人は誰も小説の登場人物のようには行動しないという知識があることです。
 
 昨夜、海は青さんとこ
「犬が三毛の一族」(おお、私も一発変換されました)
を見て、三毛の犬はいるような気がするけど、そんなにたくさんいないような、三毛猫みたいにメスばかりでオスは珍しいとかそういう特徴あるんだろうか、と検索かけてみました。
 
 三毛犬というワードは思ったよりたくさん使われていましたが
「白黒の犬と茶の犬を飼っています」
というのでなく、白黒茶の3色を併せ持つ犬はやっぱり珍しいようです。珍しいとはどこにも書かれていなかったので、本当は珍しくないのかも知れません。(どっちだ)写真を掲載しているサイトもありましたが、ラッシーのようにかわいくて高貴なお姿でした。
 結局三毛犬の科学的な説明は見つけられませんでしたが、三毛猫のオスがクラインフェルター症候群(性染色体がXXY)であるという、そういえば有名な話だけど改めて言われるとそうだったわね、という話題を拾いました。
 
 そこでクラインフェルター症候群を検索します。人間のクラインフェルター症候群に伴う障害や特徴の中に、学習障害や、発達障害を思わせる記述もありました。もちろん全員がそうではないし、発達障害よりもクラインフェルター症候群の方が発生頻度は低いです。
 もっと重篤な疾患を伴うこともあれば、ほとんど特徴的な症状の出ないまま成人するケースもあるそうです。同じ疾患でも現れ方は人ぞれぞれです。クラインフェルター症候群のオス猫が全て三毛にはならないように。
 
 三毛犬から出発して、なかなか面白い旅ができました。ウィリアムズ症候群の時も難聴の時も思わぬところから出発しましたが、こういうことがあるから検索はエキサイティングな冒険です。
 
 
 1月3日の記事。明日から待望の3連休です。犬の三毛は性染色体と無関係なのでしょう。「犬が三毛の一族」というサイトはたくさんありました。
 カラマーゾフの兄弟も読んでいますが江戸川乱歩も読んでいます。江戸川乱歩は、夏に星の王子さま と一緒に傑作選を買ったら面白かったので、その後全集の3巻(1、2巻が本屋になかった)を買ってそれきりになっていたのです。短編集なので1日1作読んでいます。
 
 カラマーゾフの兄弟は、1日1章(一番小さい単位の章)ペースです。12月29日から読み始めたので、5章からなる「第1部第1編ある家族の物語」を今日読み終えたところです。(1巻は3編構成)
 昔は数時間読書に没頭することなどよくあったのですが、今はすぐ目が疲れます。パソコンのやりすぎでしょうか。それとも年の(自主規制)。
 
 少年探偵団、明智小五郎、怪人二十面相のイメージの強い江戸川乱歩ですが、大人向けの短編の文章はとても文学的で美しいです。
 内容は推理ものや怪奇ものなんですが、そういう作品を読んでいることを忘れてしまいます。私が過去に文章を美しいと感じた作家は他に辻邦生 がいます。ストーリー展開が息もつかせぬほど面白くて構成が複雑な小説だと文章に気を取られないとも言えますが。
 
 小説には、ストーリーの面白さという要素も大事ですが、文章の端麗さも味わい深いものです。近年はエンターテイメント小説というのでしょうか、ストーリーの面白さに重点を置く傾向だと、立ち読みした小説の書き方本に書いてありました。
 文章力は矯正可能でも、奇抜なストーリー展開を奏でる才能は努力ではなかなか身につかないものかも知れません。(これは逆の説もあります)
 
 私はケータイ小説というのを読んだことがありませんが、何であんなのが受けるんだというような平凡なストーリーだと聞きます。もしかしたら文章重視型の 小説なのでしょうか。そういう文章が美しいとかリズムが心地よいと、ある世代(文化?)の中では感じられているとも考えられます。
 ストーリー重視の小説もよいですが、正月というのは世間的にも時間の流れがゆったりしているので、好きなタイプの文章をゆっくり堪能するのもよいものです。
 
 ところで、Yahooのニュートップページ なんですが、右上広告が大きくて位置的にもすごい邪魔です。スクロールバーを動かそうとしてうっかりクリックしてしまうではありませんか。左にもっていくか、その下のログインのところと入れ替えて欲しいものです。
 
 
 1月2日の記事。Yahooのニュートップページですが、カテゴリーがトップから消えたのに驚きました。なくなったのかと思ったら、右上にそっとリンクがありました。
 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。確か昨年はマキャベリ で始まったのですね。今年はカラマーゾフ からだったと後々語られるでしょうか。
 
 元旦から早速コメント返信に失敗した予感があります。過去、何度も失敗しては今度はこうしようと反省してきたけれど、いつか究極にたどり着けるのでしょうか。それとも経験から学んで次に生かそうということが間違いでしょうか。
 大先生、私は世の動きの全てを規定する環が存在するのなら還りたいです。疑い深いから、これがその環だよと言われても思い切って飛びこめないかも知れませんが。
 まあ正月だし、これでも見て 気を取り直すことにします。
 
 昨夜は何年かぶりに紅白歌合戦を見ました。つまらなかったら途中でK-1に変えようと思っていましたが、最後まで見てしまいました。衣装もセットもゲストも金かかっていて、演出もかなりがんばった印象です。
 出演者はチェックしていなかったのですが、中川翔子は歌手だったんですか。知りませんでした。若槻千夏のような
「ブログを書くタレント」
かと思っていました。
 
 その後だらだら明け方近くまでテレビを見て、1度寝て昼頃起きました。お茶漬けの元にお湯を注いだだけのお雑煮(突っこんではいけません)に電子レンジでチンしたお餅を入れていただきます。
 次に日課の読書。それから年賀状をチェック。ダイレクトメールみたいなのを除き、知り合いから来た分は2通。一段と少ないです。いやいや、仕事をしてい ると元旦に着くようにはなかなか年賀状も書けないのよ、12月は仕事自体忙しいし忘年会も重なるし、まあ気を取り直して・・・
 
 初詣に行きました。混んでいました。普通にお参りし、お守りを買いました。
「私と私の周りの人が健康に1年を過ごせますように、失業しませんように」
と祈ってきました。昨年と同じような1年が過ごせれば幸せです。(努力が足りない努力努力努力)
 
 昨日までやっていた誤変換大賞を受賞できそう投票ですが、
「ちゃあじ子さん」→「ちゃあじ古参」 3票
「水から妖精」  →「自ら要請」   3票
「なさすぎ」    →「NASA杉」   3票
で並んでしまいました。決選投票するほどではありませんが、優れた誤変換は甲乙つけがたいものがあるということですね。今年もがんばりましょう。
 
 
 1月1日の記事。配達地域指定郵便という制度のお陰で、宛名すらないダイレクトメールが増えました。今年の目標は「世界の規定する予定調和」に迫ることです。(後々突っこまないように)
 発達障害者の悪い性質の1つに
「絶対自分の非を認めようとしない」
ということがあるそうです。謝らない人や人のせいにする人は頭にきますね。
 私にもそういうところはあるのですが、自分から見た一方的な世界観で説明すると
「自分の非」
といってもそれをした時には間違っていると思っていなくて、正しいと思ってやっている訳ですね。それまで正しいと思っていたことが間違いだと言われたら世界がひっくり返ります。それではアレもコレも後で間違いになることかも知れません。
 今にも崩れそうな地面の上で何とか足を踏ん張らせるため、違う、違う、間違っていない・・・いかにも説教されそうですね。
 
 責めないでいてくれれば状況を冷静に把握しようとすることもできますが、
「こうすれば絶対に怒られない」
というラインが存在する訳ではなくて、何かあると犯人探しが行われ、いつの間にか犯人にされていることもあるのではと私のひがみ根性が申しております。私は長いこと
「自分の非を認めない」
というのはほとんどの人の持つ性質であって、自分だけがそうではないし、むしろ他の人の方がうまく人のせいにしているという被害者意識の方が強かったのです。
 
 間違いを責められるという状況は2人以上のコミュニティで起こります。1人暮らしの私が買い物に出かけて牛乳を買い忘れたとしても、今日はいいやとあき らめることもできるし、どうしても必要ならもう1回出かければ済むことです。誰も私を責めたりしません。2人以上のコミュニティでは
「どうして買い忘れたの」「メモを取ったの」「今度からどうすれば忘れないと思う」
と責められます。こう書くと
「それは牛乳を買い忘れたあなたが悪いのではないでしょうか」
と説教されると思いますが、これは例えであって、私は牛乳を買い忘れて怒られた過去はありません。
 要は、非を認めることを迫られる状況は2人以上のコミュニティのみで発生し、自分1人で完結する世界では起こらないということです。
 
 もっと大人数のコミュニティ(職場など)だと事象はもっと複雑で、確実に1人の犯人が存在するとは限りません。そんなの防ぎようがないのではということでも
「こんなことが2度とないようにね」
と締めようとされてしまいます。は、それって私のせいだったんですか。
 上手に人のせいにするのも生きる力です。そしてそれは私よりも周りの人の方がずっと上手にできていると思っておりました。
 絶対自分の非を認めようとしないのはお前だけで他の人間は違う、という見方の方が正しいのでしょう。パニクっているとなかなか思い出しませんが。
 
 
 12月31日の記事。大晦日に書くには内容がアレだったのですが、お正月に書くともっとよくないと思って出してしまいました。結果的にはより印象的な記事となってくれてよかったです。
 コメントの返信にも書きましたが、 どんな時も何を言われても謝る、と決まっているならいいんですけど、それで全部私のせいということになってそこで仕事を続けられなくなったこともあって、それも虎馬になっています。
 子供は大人の言うことに従っていればよいが大人になると取捨選択能力を要求される、ということを何度か書いています。子供にいい加減なことを言う大人もいますが、それを子供が本気にした場合は一応大人側に責任が課されます。そうしないと
「子供は大人の言うことに従わなければならない」
という、世の秩序を守る重大ルールが浸透させられなくなってしまうからです。
 
 大人になれば、たとえいい加減なことを言われようとも
「信じた方が悪い」
のです。その一方
「親切な助言に耳を貸さないようでは駄目な人間になる」
という呪いの予言もされるので、信じるも地獄、信じないも地獄です。
 
 キーとなる取捨選択能力は、他人のもたらす情報が本当か嘘か、自分にとって価値あるものか、自分の世界を破壊し混乱させるものではないかを判定する、高度な能力です。
「自分がいいと思えるものだけ取り入れなさい」
とも言われますが
「耳に痛い助言ほど価値がある」
のような、説教族が作ったとしか思えない伝説もあるので、どんどん訳わからなくなります。
 
 取捨選択能力の背景には、自分なりの価値観、倫理、良心などの基準となる軸があると考えられますが、これは絶えず説教族の攻撃にさらされています。
「お前は間違っている」「改めろ改めろ改めろ」
その度に重心がグラグラになります。その人の言う通りにしても、別な人が別方向から攻撃してきます。同じ人が態度を変えることもあります。
 
 誰の攻撃にも揺るがない、絶対的な軸が欲しい、しかし教えられたことは
「他人の言うことに従う」
ことだけ、人によって価値観は違うし、本も全てを網羅している訳ではありません。
 第1の縛りは法律でしょうが、変な国家もあります。別な価値観に支配された人をよく「洗脳」と馬鹿にしますが、あちら側から見れば洗脳されているのはこちらです。でもきりがないので、私は日本に生まれた日本人として日本の法律を信じます。
 
 法律に準ずる縛りが宗教(あるいはそれに類似したもの)でしょうか。私は特定の宗教を信じる者ではありませんが、欧米人の考え方の根底には「キリスト教的なもの」があるとよく聞きます。
 昔、とある宗教を信じる人を洗脳されたと言っていましたが、誰が何をゴチャゴチャ言おうとも、これを信じていれば迷うことはない、確固たる軸を発見した状態は違う価値観から見ると「洗脳」です。
 ではあの、いろいろな人にいろいろなことを言われて訳わからなくなっている状態が
「洗脳されていない」
のでしょうか。ゴチャゴチャしがちなので、脳を洗ってしまいたい気がします。
 
 
 12月30日の記事。今日(1月4日)新年初出社だったのですが、電車は空いているし休みの人多いし、まだ世間が動いていません。
 Yahooでこの記事を投稿した時お勧め記事として「洗脳」というキーワードの入った記事がいくつか出てきたのですが、洗脳という言葉は、考え、信条の違う人を揶揄する意味で使われているような気がしてなりません。