文喜進の死因は事故?(2) | ちゃぬの裏韓国日記

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(統一教会=世界平和統一家庭連合)

文喜進の死因は事故?他殺?

「文喜進の死因は事故?(1)」の続きです。

文教祖は喜進は事故で亡くなったと言っていますが・・・。


(文教祖と息子の喜進)

『二番目、私たち喜進も16歳のティーンエージャーの時に伝道を出て行って・・・。本当にありがたいのです。自分たちの家に再臨主が来たと言って、何も知らずにご父母様に対して信じられずに(心が)行ったり来たりする立場で、原理のみ言葉を知って、伝道に私が最初に先頭に立って出かけるんだと言って出かけた途中、汽車に乗って行くとき、汽車の乗車階段の一番下に立って、(汽車が)カーブを回るのに顎を突き出して、このようにして、そこのライトに当たって客死しませんでしたか?
(「文鮮明先生み言葉選集」477巻より)

顎を突き出しているのを誰がみたのでしょうか。
弟子は危ないと言って止めなかったのでしょうか。
どれだけ顔を外に突き出せば、ライト(多分電信柱)にぶつかるのでしょうか。

『喜進もそうですよね? 惨死ですよね? 喜進が「私たちの家は、再臨主の家庭だから、再臨主の血筋を持って生まれた息子として私は伝道していく上で先頭に立つ」と言って伝道に出掛けたのですが、車(汽車)に乗って行く途中で惨事にあったのです。私は涙は流しませんでした。竿のような息子が折れていく、露のように浮いてしまうことを見て父という人(文教祖)は涙を流しませんでした。何のために? 祭物(神への供え物)です、祭物。きれいに未練なく天に捧げる心を持たなければなりません。祭物です。』
(「文鮮明先生み言葉選集」363巻より)

祭物(神への供え物)といえば聞こえはいいですが、これは生け贄のことです。
(文教祖はよく「生きた祭物」という言葉を使っていましたが)
人間を死を持って神に捧げたということです。
文教祖は、亡くなった喜進には「殉教者第一号」だという称号を与えていますが、中学生の子供を1人で開拓伝道に行かせたのです。正妻、後妻の息子たちには決してさせなかったことを、妾の息子にはさせるのですから、疑問だけが残ります。

喜進の世話係だった李貞玉は、てっきりお供付きだと思っていたのが1人で開拓伝道に出発したことに対しておかしいと感じていたようです。

『朝食を取ってから、真のご父母様にごあいさつに伺うと、伝道に出発するということで、お金も下さいました。そのとき、私は、“特別にお供するかたがいるはずだ。”と思っていたのですが、喜進様は、お独りで出発されたのです。喜進様が乗られた汽車は、普通列車でした。駅ごとに止まる列車です。その列車の中は、人でいっぱいで、空席も満足にありませんでした。そのような列車に、修練生全員が乗ったのです。喜進様は、暑いので、汽車の入り口の所にある取っ手を手でつかんで、風に当たっていたのです。風が吹いてきて、どれほど涼しかったことでしょうか。そのようにしていたところ、電信柱にぶつかって、事故が起きたのです。午後に、その悲報が届きました。私は、少しけがをした程度だと思っていました。昇華されるとは思いもしませんでした。』
(李貞玉の証(喜進様を追慕して)より)
(※李貞玉は1956年に統一教会に入教。1998年6月13日文鮮明教祖からマホメットの妻として霊界祝福されている)

何か変ですよね。
「喜進様は、お独りで出発された」と言いながら、「修練生全員が乗った」と言い直しています。
夏季開拓伝道は、当時、統一教会では毎年恒例だったため、信者がソウルの本部から団体で出発するはずです。
それを「独り(単独)で」ということは、信者とは別に意図的に出発させたという風にも取れます。
列車には「信者が全員乗った」と言いながら、喜進だけは独りですか? どうもおかしな表現です。単に「ペアを組まないで」「単独」で任地開拓だという意味で書いたとは思うのですが、「修練生全員で出発」したはずですなのですが・・・。

このときの様子は次のようです。

『一九六九年夏、中学生だった喜進様は、成和学生(中高生)の原理修練会を受けて、ご自身が人類の真の父母様の真の子女であることに感激された。込み上げる孝心と沸き立つみ旨に対する情熱を抑えきれず、弱冠十五歳(数え)にして自ら志願し、任地である慶尚北道の金泉へと、開拓伝道の道を出発された。ところがその日、八月一日、忠清北道の梅浦駅近隣で思いがけない列車事故に遭われ、殉教の供え物になられたのである。実に哀切なる、崇高なアベルの犠牲の道であったと言わざるを得ない。』
(実録・洪順愛大母様の生涯と信仰)

『真の御父母様家庭の二番目の御子息である喜進様が、ソウル市にある中東中学校二年の時の一九六九年八月一日(陰暦六月十九日)、夏季伝道中に昇華された。喜進様は、四十日伝道の意義を強調なさる真の御父母様のみ言を重んじて、ソウル市地域の成和学生たちと共に四十日伝道の先頭に立ち、八月一日、慶尚北道金泉を伝道地として列車に乗っていく途中、忠清北道梅浦駅付近で不慮の事故に遭われた。
(真の御父母様の生涯路程10)

このことから学生たちと一斉に修練会後に出発したと考えられます。
世話係の李貞玉がなぜ「喜進様は、お独りで出発された」と言ったのか、どう考えてもおかしいのです。


実は文教祖の妾の息子の喜進の死について、教会ではこのような噂が流れていたようです。
幹部なら誰でも知っているでしょう。

6. 日本できいてた話と
米国できいた話が違った。
日本の講義できいたのはき車から頭を出したためぶつかってなくなった、、。ですが
米国でのうわさでは喜ジンがでるときに誰もみおくるなといわれたらしいがひとりだけ心配してこっそり影からついていった人がいたといいます。
その人の話では前列にたって待っていた喜ジンは後ろからおされたと。
いうなとは言われたらしいがそこは米国。
そういう噂になっています。

それに興ジンの墓は大きくあるのにすぐ上にある喜ジンの墓は信者には特に説明がありません。すぐ目の上なのです。変でしよ。
喜ジンの母親も日本人のせいで自殺したといいながら隠れていきるようにさせられてた訳でしよ。
それでソクラテスと結婚させるとかで表にだしたのだから嘘がアキラカ。
あつかい、、ひどすぎない?

サボテンのはな 2014-09-23 23:03:02
http://ameblo.jp/mikan-ha417/entry-11928947674.html

なんと殺されたというのです。
これと同様の事を日本の古参信者も話しています。
昔のシックは喜進は殺されたんだという話しを聞いていたようです。


(喜進の墓)


(文教祖の妾で喜進の生母の金明煕)

<草創期からの古参教会員の文喜進の死因について言及>
[334]題名:Re: 詳しい方に質問 投稿者:itiro
・・・
戦後まもなく崔先吉という女性と婚姻届を出すこの女に生まれたのが文聖進この方は日本在住という話だが昔お目にかかったことはあるがもの静かな方という印象ただ実の妹と結婚させられた、次に婚姻届を出したのがツルコ(韓鶴子)である他はどのようなことかよく知らないが文鮮明と金明煕との間の子が文喜進この子は14歳で列車から突き落とされて殺された、
ツルコとの結婚の時はすでに大勢の女と関係を持っていた、
ご本人曰く16歳の生娘から80歳の老婆までと豪語している、ツルコとの世界路程とやらで海外旅行並びに日本洗脳をおこなった、どういうことかというと西川先生の下独特の雰囲気中性的というか新約的聖家族主義を作り上げていた日本の教会の空気をブンセンメー流な(性)行為中心の気風に作り替えた、そのご一行とは三人でホテルの一室を借りて楽しみにふけりながらの世界路程であった、その三人とはブンセンメー、ツルコ、と崔元福先生であった、崔元福を先生というのはこの世では梨花女子大の教授であったからである、この崔先生はなかなか如才ない方ですっぴんのブスくれた教会の女性ばかりみていた私には全く異質の女性であった、化粧はばっちりしているし高価なイヤリングや首輪をしてきているものも一流品ばかりと見えたまたお話が好きで、三人の性生活まで話してくれた私とするときはもうすでにツルコとは終えて長丁場でいろいろ話しながら楽しみますが、脇ですっかり疲れはててぐっすり寝ているツルコをみながら「私も悪い男だよなあ」などとおしゃるのですよ。などという話を半分わからず聞いていました。・・・

(ブログ「統一教会 最下層信者」の再開を願う掲示板より)
http://co.koroweb.com/b/r.cgi?nan=90&log=threadobserver


(継母の鶴子夫人と喜進)


(左から聖進、文教祖、誉進、孝進、鶴子夫人、喜進)


(左から文教祖、誉進、西川勝先生、喜進、鶴子夫人)

そして文教祖は私生児として生まれた息子の喜進も「死んでよかった。死ななかったら後で(妾の母のこと等で)問題がおこるから死んでよかった」という父親です。
あとあと問題になるような人間、義母(洪順愛)もなにか文教祖の弱みを握っていたので、早く死ぬことを望んだのでしょう。
36家庭で原理講論の著者の劉孝元氏も無理やり手術を受けさせて死に至らしめていますし。


(文喜進と劉孝元)

私は喜進が(霊界に)行ったことに対して感謝しています。彼の性格は、何か問題が起こると、その性格がねじれ易いのです。そうなると、サタンがすべてを引っ掛けてくるのです。彼の性格からみると、喜進はとても活発な子供だったのです。勘がとてもよく利くし、また男性的でした。そのような立場で相当心配したのです。
先生の家庭を見ても、二番目は分かれるのです。そのようになりやすくなっているのです。それが復帰の原則であるからです。そのようなことを見ると、一面には、ああ、その子が行ってしまったことは、とてもかわいそうなことですが、地においては損にならなかったと考えているのです。これからは、聖進がよくやって、伝統さえ立てておけば、弟達はそのままついていくようになっているのです。』

(我が家庭のいく道 1971年8月28日 清平修練所)

『私は、食口たちに、「歴史時代で一度しかないこの神聖な時代に、神様の前に最初の祭物となる個人や家庭や氏族は福を受ける」と話しました。喜進が逝った時、このようなことを回想しながら、「神様、家庭でそのようなことがあるのは、私個人の悲しみではなく、私の家庭の喜びです」と祈祷したのです。』
(真の御父母様の生涯路程10)

『それで、六三年度から狩りに高い山に行って、鹿一組を捕らえて、刃物で心臓を裂きました。なぜこのようなことをしなければなりませんか? 復帰です。それで、狩りが必要なのです。』
(第三十九回「真の父母の日」敬礼式後のみ言葉 1998年3月28日 漢南国際研修院)





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