日本人の朝鮮孤児のアボジとオモニ | ちゃぬの裏韓国日記

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カルト統一教会と世界支配層との関係をあばく
(統一教会=世界平和統一家庭連合)

今から40年近く前に、韓国政府から文化勲章をいただいた日本人が二人いました。一人は、曾田嘉伊智、もう一人は田内千鶴子という人です。

その頃の日本と韓国は今ほど、仲が良くはありませんでした。かつて、戦争によって多くの悲しい出来事があったためです。そんな中で、韓国から文化勲章をいただくことは、特別なことでした。それぐらい、先に紹介した二人は韓国という異国の地で人のためになる行いをしたのです。

いったいどんな行いをしたのでしょうか。それは、共に「孤児を育てる」ということでした。

http://homepage2.nifty.com/masa555satou/m2ikokukoji.htm

統一教会女性信者が韓国に嫁ぐずっとまえに、日本よりも韓国に尽力してくださった方がいたことは忘れてはいけないと思います。

それに1965年日韓基本条約の戦後賠償によって日本の韓国への償いは完全に終了しています。

日本人の朝鮮孤児のアボジ(ソウル)・・・曾田嘉伊智
(1867年 - 1962年没)
『山口県で生まれた曾田嘉伊智が今の韓国に渡ったのは、1905年、彼が38歳の時でした。台湾旅行で、山の中で倒れていたのを韓国人に助けてもらったのがきっかけです。彼は「韓国人のために何かをしよう」と考えます。
1921年、鎌倉保育園の京城支部長となり、以来、韓国孤児の養育にあたりました。30年以上にわたって曾田夫妻によって育てられた子供の数は、1000人を越しました。
葬儀は韓国社会団体連合葬として盛大に行われ、政府・社会団体関係者や市民2000人が参列しました。1962年、韓国政府は曾田さんに文化勲章を贈りました。日本人への授章は初めてで、日韓正常化前の当時としては、異例の事でした。』

http://plaza.rakuten.co.jp/silverlining/diary/201201090000/
http://homepage2.nifty.com/masa555satou/m2ikokukoji.htm



日本人の朝鮮孤児のオモニ(木浦)・・・田内千鶴子さん
(1911年 - 1968年没)
『1938年韓国木浦で(朝鮮人の)尹致浩と結婚する。夫と共に、孤児救済のために共生園で働く。朝鮮戦争で夫が行方不明になる。夫亡き後も孤児救済のために尽くし3000人の孤児を守り育てた。1965年韓国文化勲章国民賞を受賞する。1968年韓国の木浦市で死去した。木浦市では市民葬を行い、3万人が出席した。現在共生園は長男の田内基が園長をしている。田内の激動の生涯は『愛の黙示録』という題名で、日韓合作で映画化された。』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%86%85%E5%8D%83%E9%B6%B4%E5%AD%90
※日本テレビ「知ってるつもり」、NHK「BS放送」でも紹介されました。


このほかに私の知る限りでは、李氏朝鮮皇太子・李垠に嫁がれた日本皇室の梨本宮方子(まさこ)様も韓国障害児の母として生涯を終えたかたがでした。


韓国障害児のオモニ・・・李方子殿下(梨本宮方子様)
(1901年 - 1989年没)
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1920年 李氏朝鮮王家最後の皇太子・李垠が日本皇室の梨本宮方子(まさこ)女王と結婚

■反日感情渦巻く韓国へ

昭和38(1963)年11月22日、垠殿下と方子妃は大韓民国に帰った。皇太子として11歳で故国を後にして実に56年が経っていた。ベッドに寝たままの殿下は、そのまま病院車に乗せられ、ソウルの聖母病院に直行した。ちぎれるように手をふる出迎えの人並みも、目には入らなかった。たとえ一歩でも半歩でもいい、殿下の足で故国の土を踏ませたかった、と方子妃は切ない思いをした。当時の韓国では、李承晩大統領の12年間におよぶ排日政策の結果、反日感情が横溢していた。小学校から、中学、高校と反日教育が施され、「電信柱が高いのも、ポストが赤いのも、みんな日本が悪いとされる」と揶揄されるほどであった。方子妃が勝手が分からずに、使用人にまで丁寧に頭を下げると、たちまち非難の的になった。「チョッパリ女出て行け」などと罵倒されたこともあった。チョッパリとは豚足のことで、足袋で草履を履いた足はブタのひづめと同じだというのである。

■障害児の教育を始める

そんな中で、方子妃は精神薄弱児の教育を始める。ポリオなどで麻痺した子どもたちは、家族の恥として家の中に閉じこめられていた。方子妃はその子供らの自立能力を引き出し、育て上げることを目指した。新聞に心身障害児募集の公告を出すと、たった一人8歳の精神薄弱の女の子の応募があった。交通費程度で来てくれる優秀な若い先生を見つけ、また場所も延世大学の一隅を間借りできた。机などは古道具屋を廻って調達した。あの家にポリオの子供がいる、と聞くと方子妃は訪ねていく。おびえた眼で迎えられた事もたびたびだった。それでも1年して、聾唖や小児麻痺の子どもが10人ほども集まった。政府から支給される生活費は、垠の入院費と生活費でほとんど消えてしまう。方子妃は資金を稼ぐために、趣味で作っていた七宝焼を売ることを始めた。足踏みバーナーで長時間火を起こしていると、足が腫れ上がった。夏の暑い日には窯の熱気を浴びて、汗だくだくになる。すでに60代半ばの方子妃には重労働であった。

■韓国障害児の母

生徒数が多くなると、新しい土地を探し、建物を建て、「慈恵学校」が正式に発足した。より多くの資金を集めるために方子妃は王朝衣装ショーを始め、自らも宮中衣装を着て海外を廻られた。これには、旧朝鮮王朝の権威と誇りを大事にしてもらいたい、と非難が集中した。しかし、妃殿下はそんな非難をよそに80歳を過ぎても海外でのショーを続けられた。このような方子妃の努力で慈恵学校は形を整え、児童数150名、校地4千坪、教室や寄宿舎以外に、豚舎、鶏小屋、農場まで備える規模に成長していった。方子妃が日本への募金旅行から帰った時の帰った時のことである。風呂場をのぞくと、せっけんの泡をつけた子どもと、お湯のしずくをしたたらせた子どもが抱きついてくる。方子妃はよそゆきの洋服が泡だらけになるのもかまわず、子どもたちを抱き寄せ、「ただいま」と一人一人の顔をのぞき込む。一緒に訪れた在日韓国人の権炳裕は、この光景を見て胸がつまり、この方の為ならどんな応援もしようと心に誓ったという。権はその後の在日大韓民国婦人会中央本部会長である。

平成元(1989)年、方子妃は87歳で逝去された。5月8日、古式に則って千人の従者を伴った葬礼の行列が、旧朝鮮王朝王宮から王家の墓までの2キロの道を進んだ。墓にはすでに19年前に亡くなられた垠殿下が待っている。韓国からは姜英勲首相、日本からは三笠宮同妃両殿下が参列され、多くの韓国国民が見送った。

日本の皇族として生まれ、朝鮮王朝最後の皇太子妃となり、さらに「韓国障害児の母」と数奇な運命を辿られた方子妃は、「一人の女性として、妻として、私は決して不幸ではなかった」と述べられている。日韓の架け橋になろうとの15歳の時の決意のままに、その後の72年間を生き抜かれたのである。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog178.html