文教祖は予言書に出てくる再臨主なのか?(5) | ちゃぬの裏韓国日記

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(統一教会=世界平和統一家庭連合)

「文教祖は予言書に出てくる再臨主なのか?(4)」で「東方の国に再臨主が現る」と聖書で預言されている部分の「東方の国」はイザヤ書では「東の地の果ての海の島々」と表記され、それが実は日本かも知れないと説明しました。

失われた10支族が中国⇒朝鮮⇒日本と渡ってきて定着していたら、その痕跡は日本のどこかに残っているかも知れないと「夢」をふくらませたくなります。ここからは、ちょっと推測の域に入ってきます。世界では、いまだに再臨のキリストを探しているくらいですから。
イルミナティ等の秘密結社が最も熱心に真のキリストを探していて、日本もかなり調査したらしいです。

これはあくまで推測ですが、日本にユダヤの痕跡があるとしたらどうでしょうか?特に文教祖が邪神とまで否定している「神社(神道)」と「ユダ族等の10支族」との関連性があるとしたらどうでしょう。

■神社はモーセの幕屋の構造とそっくり?

日本の神社の構造は、旧約聖書にでてくるイスラエルの幕屋、神殿の構造に酷似しています。神社が拝殿と本殿に分かれているように、幕屋も聖所と至聖所に分かれている。(出エジプト)
イスラエルでは聖所に入れるのは祭司だけであり、神社でも拝殿に入れるのは神主のみである。神社では本殿に入るのは、特別な時だけであり、至聖所も同様。
イスラエルと同様に、日本の神道では、「偶像」がない。「狛犬」は信仰の対象ではありません。神社の本殿の中央には、鏡と剣、ペンダントがありますが、神道はそれらを彼らの神と考えていません神社において神は「見えない存在」として捉えられています。鏡や剣は偶像ではなく、見えない神が臨在する場所であることを知らしめるオブジェクトに過ぎません。
神社には入り口に狛犬が置かれていますが、古代イスラエルにも神殿や宮殿に獅子がおかれています。(列王記上10:19)古代日本には、もちろん、ライオンはいませんが、そう考えると神社の狛犬は驚くべきものです。
また、神社には手水舎と言われる、手と口を清める為の水場が置かれています。イスラエルでも同様に、幕屋の前の、洗盤の中に清めの水が置かれていました。(出エジプト30:17)日本の神社には「鳥居」があります。韓国や中国にはこのようなものはありません。
鳥居は主に「赤」ですが、これは出エジプト(12章)の過ぎ越しの際、門の2本の柱に羊の血を塗ったことを思い起こさせます。イスラエルでは、現在も過越しの祭りとして、これをお祝いしています。
また、「トリイ」はヘブライ語アラム方言で「門」のことです。
神社では聖所を注連縄(しめなわ)で囲む習慣がある。注連縄はロープに白い紙をはさみ周囲との境界を定める。モーセがシナイ山で十戒を受けたとき、民衆が山に近づかないように境界を定めた(出エジプト19:12)
注連縄にはさまれている白い紙は、ジグザグで、これはシナイ山における「稲妻」を思い起こさせる。
他の共通点は、神社がほとんどの山(イスラエルでは山は神聖な場所)にあること、東に入り口、西に至聖所、神殿がほとんど木で作られていると同様に、神社も木で作られていることなどです。』
(バイブルアンドゴスペル(神社と幕屋)より)
http://blogs.yahoo.co.jp/timothy3005/3596081.html

『伊勢という名が「神の救い」という意味を持つヘブライ語と発音が類似しているのは単なる偶然なのでしょうか?伊勢神宮の伊雑宮のイゾウという文字がイザワと読まれるのは預言者イザヤ の名前に由来しているからでしょうか? 伊雑宮から内宮、外宮に至る街道沿いの石灯篭にダビデの星が刻まれてある理由は?そして伊勢神宮の秘宝である八咫鏡の裏には本当にヘブライ語で文字が書かれているのでしょうか? 再び伊勢神宮の謎に迫ります。
 不思議なことに日本の神社の構造はイスラエルの幕屋とエルサレム神殿に類似している点が多数あります。イスラエルの民は荒野で旅をしながら、神がモーゼに命じられるまま礼拝所を簡単に移動することができるように、幕屋と呼ばれる長方形のテントの中に小さな木造の建物を設置して神を礼拝しました。
伊勢神宮の内宮にある御正殿に至る石段を上り、板垣南御門の前にきますと、そこには御幕(おんまく)と呼ばれる生絹でできた布がかけられており、そこで来訪者は参拝をします。驚くことにそこから見る周囲の風景は聖書に描かれているイスラエルの幕屋に良く似ています。皇大神宮が幕屋のようにきれいな長方形の板垣に囲まれ、大変質素に造られているからです。
 外観だけでなく内部構造も大変良く似ています。御垣内に入りますと、そこには中重鳥居と呼ばれる二本の柱があります。日本では鳥居の柱にしめ縄をかけてその2本の柱を結ぶことがあります。旧約聖書の列王記上七章を読みますと、エルサレムにソロモン王が神殿を建てる際、その入口に2本の柱を設置したという記載があります。この青銅でできた二本の柱の頂には丸い柱頭があり、鎖で編んだ市松模様の飾り紐をその柱頭に巻きつけなければならないことが聖書に書かれてあります。また多数の神社でお馴染みの狛犬と呼ばれる向かい合った獅子像と同様に、エルサレム神殿においては玉座の両側に2匹の獅子が立っていたことが書かれています(列王記上10章19節)。
 日本の神社には手水舎(てみずや)といって、手を洗い口をすすぎ、禊をする清めの場所が設けられています。その洗い場を通り過ぎると檜で造られた拝殿と本殿の2間があります。その本殿と呼ばれる聖所の東側は格子、西側の部屋には霊が祭られています。イスラエルの神殿においても会見の幕屋に入る前に祭壇のそばにある洗盤の水で手足をまず洗うことが義務付けられていました。その奥は神社と同様に檜で造られた聖所とその奥にある至聖所の2つの間に分かれています。そして神社の拝殿より先は一般庶民が入れないように、イスラエルの聖所にも祭司しか出入りすることができません。事実この至聖所には大祭司が年に1度だけしか入ることが許されていないのです。しかもこの至聖所は西側に位置しているのです!
 その上、伊勢神宮にお参りに行くとすぐに気がつくことですが、目に見える形で祭られている仏壇や神々の像が存在しないのです。これは偶像礼拝を禁じているユダヤ教と同様であり、幕屋やエルサレム神殿にも礼拝の対象物は一切ありません。また神官が着る真っ白でフサのついた着物と古代ユダヤ教における祭司の服装も実に良く似ています。これらは全て偶然の一致といえるのでしょうか?ユダヤと日本のハーモニー、ますます興味が湧いてきました。(文・中島尚彦)』
(日本とユダヤのハーモニー(伊勢神宮の構造はイスラエルの神殿がモデル)より)
http://judea.naritacity.com/journal_japan_030215.asp

ユダヤと日本の共通点はまだまだあります。比較検証はまたのちほどしたいと思います。
ちなみに狛犬も韓国や中国にあります。でも、神社は韓国にないですね。
詳しくは「日本神道のルーツは古代イスラエル宗教」をご覧ください。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/091shintou.htm

原理講論では、再臨主はユダヤ民族の血統的継承とは関係がなく、ユダヤ民族の失敗によりキリスト教徒全体に神の偉業が移行したとしています。しかし、文教祖はキリスト教徒の家に誕生していません。原理講論の内容とは矛盾しています。
では、文教祖は「神社」をどのように語っているでしょうか?



■文教祖の神社に関するみ言葉

『第二に、日本国民の神社参拝、そのほかの雑多な神々への崇拝などは、天上世界の永生という観点から見れば、絶対的障害物になるものだということを自覚しなければなりません。』
(霊界の実相と地上生活 第七章 大隈重信の霊界メッセージ)

『特に三番目の「みだりに神の名を唱えてはならない」とあります。「みだりに」とは無目的な事に神様を利用してはいけない、神様という言葉を使ってはいけない、唱えてはいけないという意味であります。信仰者にはよくあることで「これが神様の願いです、父母様の願いです」と言って自分のことを話す人……そういうやり方を「みだりに」と教えています。だから信仰者の過ちというものは、実に賢く十戒の中で抑制されているのです。こう考えると十戒というのは実に素晴らしい。私たち日本人の心霊というものは十戒の基準を乗り越えたかどうかと思うときがあります。まだ十戒以下かもしれません。
 そういう一つの考え方、信仰の形を持って来たイスラエル民族ですから、よく言われるように実に頭が良かった。すばらしい能力があったということです。特にイスラエル民族が激しい迫害の中で生きてこれたのは、理由はたった一つです。聖殿を時間の中に作ったからです。十戒のたった一つ、五番目、「安息日を敬え」とあります。問題は安息日という「時間」なのであります。安息の場所を尊べと言っていなんです。その当時のパレスチナ、あの周辺にあった宗教は、日本の宗教のように神社とかお参りする場所(山や聖所等)に結びついた宗教でした。即ち空間に結びついていたのでありました。ですからその場所に行かないと本当のお参りはできなかったのです。イスラム教もそうですね! カーバの神殿という黒い石のところに一生に一度は行かないとお祈りにならないんです。ユダヤにはそれがありませんでした。安息日を敬えという時間の中に神殿を建てたんです。だから空間は自由に移動しました。どんなに肉体が殺されようが、迫害されようが移動することが自由に出来たのです。時間だけ守ればいいんだから。
 統一教会も同じですね。敬礼式を敬えと言ってるんです。訓読の時間を守れと言ってるんです。その時間を守ればいいんです。場所は何処だって良いのです。駅のガード下でもいいんです、清平の宮殿でもいいんです、ここでもいいんです。お父様は場所をいといません。
地球上どこでも移動されます。一ヶ所に固定されることは一切ない。あんなに移動された方はいないです。だから「時間」を大切にして子供たちを教育したり信仰を伝えればいいんです。時間を大切にしないといけないのです。そういう風に時間を守ってるということが、イスラエル民族を守ったように、私たちもそのようにしないといけません。ですから専門的に見ると本当にこの運動は実に豊かな力を貯えています。』
(『聖本』に関して(西東京教区での大塚克己会長の講話)

※幕屋(聖所・至聖所)という礼拝場所は関係なく、礼拝の時間を守ればいいと大塚会長は語っています。

戦争が終わって、日本が敗れたと知った時、韓国人がまず何をしたかというと、軍の本部を襲うということではなくて、日本人が建てた神社を焼き払ったそうです。よほど腹に据えかねていたのでしょう。こういう歴史があったことも、韓国人がどういう気持ちだったかということも、日本人の大半はすっかり忘れてしまっています。否、教えていないのですから、本当に知らないのです。ですから、韓国人の怨念は晴れることがありません。
( 久保木修己著「愛天愛国愛人」)

『先生はまず、地下教会(神霊集団)を遍歴しました。日本の神社を参拝した汚された人々が現れるために、解放の三年前から、つまり数えの二十三歳から、地下教会の遍歴を始めたのです。「神霊的な人たちは、どのような道を行くのだろうか。神様の摂理はこうこうでなければならないはずだ。そのために準備団体が必ずなければならないはずだ」と考えて、地下教会を探査し、有名だという神霊的な人々にすべて会ってみました。しかし彼らも神様のみ旨を知らずにいたというのです。神様のみ旨の方向を知らずにいたのです。』
(真の御父母様の生涯路程1 第一章 真のお父様の誕生と内的準備)


■神社参拝を拒否した宗教は天の側?

『韓国の大統領になる人は、アベルの代表にならなければならないのです。天に侍るアベル的な立場から、神社参拝した牧師を使ってはならないのです。そのような牧師は除去して、獄中や地下で苦労した人々をアベル的教団に立てて、再教育して国を立てることができる業をしなければならなかったのです。その時、私は長官級の人は、すべて知っていました。地下で運動する有名な人々に、私がみな会ってみたのです。その人々は、私が誰なのかを知っているのです。ですから、そのような環境にさえなっていたならば、どのようにしようが、その時、自動的にアベル教団を中心として、民族主体思想を中心として、新しい方向、世界に進む新しい道を主張して出発することができたのです。』

そのお兄さんは、その時まで神社参拝した既成教会を信じ、母親とこの娘は、再建教会を信じました。それはカインとアベルです。再建教会を信じる人々は、神社参拝をしなかった人たちだからです。このように韓国の教会から見れば、お兄さんは蘇生であり、母親は長成であり、聖進のお母さんは完成として、ぴたっと連結されたのです。聖進のお母さんは私に属しているために、蘇生、長成、完成になるのです。』
(真の御父母様の生涯路程2 第二章 韓国解放と摂理の出発)

『第二次大戦後、韓国キリスト教は、大戦中に神社参拝をせずに地下運動をして信仰を貫いたアベル教団と、生き延びるために神社参拝をして日本帝国に妥協したカイン教団とに分かれていました。』
(統一教会公式HP)

『では、統一教会は何故現れましたか。本来、イギリス、アメリカ、フランスが、エバとアベル・カインの関係です。イギリスはエバ国家であり、アベルはアメリカであり、フランスはカイン国家です。このような立場の三国家が一体となって、第二次世界大戦においては、日本はサタン側のエバ国家となりました。日本はサタン国家の故に、韓国に将来メシアが来られることを知っていたため、サタン国家日本は韓国を侵入して来ました。「日・韓併合」を中心として、神社参拝など強要しました。その後再臨時代において、反対方向に展開されることを知っていたのです。悪魔は、神様の行く道と正反対の方向を通して、神の御旨を根本的に破壊させる準備をすることによって、必ず、神の御旨と一八〇度違う結果をもたらそうとするのです。このように見る時、日本が、韓国を占領し、韓国民族を日本民族化して、完全に民族を無くそうとしたのは、サタンの理想を全面的に展開する作戦のための過程的現象だったのです。真が来る前に偽りが来て、道を妨害するための準備だったのです。
(第十回愛勝日1993年1月2日)

『当時の状況を摂理的観点で説明してみることにしましょう。神社参拝運動によって獄中に入っていった教役者たちはアベル型であり、日本帝国主義の弾圧政策に屈服し、「神社参拝は、宗教でない愛国的国家儀式なので、皇国臣民として忠誠を果たす」と言った教役者たちはカイン型です。
(神様の摂理から見た南北統一)

『なぜ黙っているのですか。韓国のおばさんたちは笑っているのですが、日本のおばさんたちは笑うことができません。人は言葉が違います。それでは、何が違うようにしたのでしょうか。神様がそのようにされたのではありません。サタンがそのようにしたのです。日本民族が、天照大神、神社参拝、先祖第一主義を中心として、先祖のために死のうとしますが、先祖のために死ぬことを願う善なる父母はいません。先祖たちが暮らしていたその国、先祖たちが暮らしていたその世界のために死ぬことを願う忠孝の教えはありますが、雑神に仕え、先祖たちに仕えなさいという、そのような教えはあり得ません。ですから、日本の国がどれほど混乱したかという事実、日本の霊界がどれほど混乱したかという事実を知らないのです。』
(第八回「安侍日」 2004年6月30日 麗水・清海ガーデン)


■神社は偶像崇拝?

その当時、多くの既成教会の信徒たちは、神社参拝をしましたが、篤実なクリスチャンたちは、それを拒否しました。なぜならば、モーセの律法が偶像崇拝を禁じていたからです。そのような者たちが、この集団に従う傾向があったので、牧師たちは、彼らがこの集団に行くことを止めようとしました。それが、牧師たちが日本の官吏の所に行った理由なのです。
 その牧師たちの告発によって、その老婦人は投獄され、ひどい拷問を受けました。そして釈放後に彼女は死んだのです。一方、彼女の死によって、地下で計画されていた神様のみ旨に、幸運が戻ってきました。それで神様は、同じ運動を始めるために、他の婦人を選んだのです。』

※最初に書きましたが、神社には「偶像」となるものがありません。神道すなわち神社において神は「見えない存在」として捉えられているためです。



■文教祖の考える「聖所と至聖所」とは

大塚会長の解説にもありましたが統一教会は「幕屋という礼拝場所」が問題ではなく、礼拝する時間を守ればいいと言っているように、モーセの幕屋そのものの継承はあまり重要視していません。原理講論でユダの血統的継承を完全に否定しているのですから、ユダヤ民族の様式を持ち出しては、文教祖との整合性に欠けてしまいます。
そこで、幕屋における「聖所・至聖所」も場所や様式ではなく、男女の生殖器になっています。もちろん生殖器を大切に扱うことは否定はしません。神が姦淫を好まれないはずはありませんから。


<聖所・至聖所に関するみ言葉>

神様が最高の至聖所としてつくられた場所が生殖器です。堕落する前は、その位置がその場所でした。人々は、堕落論に対してすべてを知ることはできません。それが原理ではないですか。』
(宇宙の根本 第3章 人間堕落と復帰)

アダムの心は至聖所のようなもので、アダムの体は聖所のようなもので、その中に神様がいらっしゃるのです。そのようになっていれば、アダムは神様の体になるのであり、エバも神様の体になるのです。神様の男性格的性稟に似たのがアダムであり、女性格的性稟に似たのがエバです。この二人が結婚式をすることが、宇宙の王権を立てる式ではありませんか。それは何の王権ですか。愛の王権です。』
(祝福家庭 第1章 真の父母と祝福 1986年3月19日)

『自分の体を全部自分のものだといいますが、愛だけは、自分のものではありません。愛は、全部相対のものです。旧約聖書を見れば「聖所」や「至聖所」という言葉が出てきます。聖所は人を象徴するものであり、至聖所は愛の家を象徴するものです。人は、それぞれ聖所をもっていて、至聖所をもっています。言い換えれば、聖所は、神様に侍ることのできる家です。至聖所は、神様だけが特権的愛の主管圏をもつことができるので、神様との関係を結ぶことのできるところです。至聖所を守る祭司長は、絶対に二人ではありません。一人です。昔、エバの前に、その至聖所の鍵をもっていたのはアダムで、アダムの至聖所の鍵をもっていたのはエバだったことを知らなければなりません。』
(真の愛 第2章 愛の実際 1984年6月20日)

『そのようなことを考えるとき、文総裁が「契約の箱の中の二つの石板は、アダムとエバのことをいいます」と言ったのですが、それを象徴しているのです。至聖所とは、その場所です。誰も触ることができません。触ってすべて滅びたのではないですか。至聖所は、その場所です。それから、芽を出したアロンの杖です! この杖は何でしょうか。永遠に死なないということです。死んだ杖から芽が出てくるので、永遠に死なないということです。何を中心としてでしょうか。本然の愛です! 愛がなければ死にます。それで、芽を出したアロンの杖が出てくるのです。そのような意義があるので、聖殿に置いて侍ったのです。ですから、神様の体を象徴したものが幕屋です。体は聖所であり、至聖所はその場所です。
(宇宙の根本 第3章 人間堕落と復帰 2000年6月29日)