原理本体論 | ちゃぬの裏韓国日記

ちゃぬの裏韓国日記

カルト統一教会と世界支配層との関係をあばく
(統一教会=世界平和統一家庭連合)

※自分用メモです。「原理本体論について」



復帰と祝福 1969年2月2日 東京教会
今あなたたちが学んでいる『原理講論』、これは歴史路程において成された結果的記録であり、
これをいかにして蕩減すべきかということについては、まだまだ述べていない。

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2008年8月31日訓読会み言
統一教教員たちが根本を知らないでいるという事実を分からなければならないのです。

…… 訓読 ……
先生が毎年、標語を中心として12か月を通して内容が総て残らなければならないのですが、どこの誰であれ、史吉子も劉孝元もみな、
果たせず、それですから、原理解説ということばが出て来たのです。その次には原理……・原理講論、その次には原理……本論が出て来なければなりません。
真の父母、真の師匠、真の主人、それでこそ投入して、そのような家庭的基盤が出来なかったので皆さんの家庭が今、
この世でみな、韓国の先生が同族家庭として、名のある名門の家庭の伝統を守る、父子の関係の制度にも及ばない、くそ犬のような家庭が多いのです。
天国には行くことが出来ないのです。

 ですから、この本も原理解説、次には原理…… 講論ですよ、教えることの出来る教材、その次には何かといえば、
原理原本、原論、原理本体論が、父母様が生きること自体を総てみな、そのまま反復して、自分たちが、四知があり、
共にこっちで見ても統一、文先生に似ている、神様が見ても、やー、どうやって統一教会の文教主に似ているのか、とならなければならないのです。
原理本論が出て来なければなりません。本論ではありません。
実体、一体となった論理、一体論、本体論が出て来なければなりません。
神様の本体論が総て思想界において、神様の本体論が出て来て、根本となった何かが、何も分からない輩たちが天の国へ行ってお爺さん王権を相続されて、
お爺さんを伝道することの出来るお婆さんたちになり得ないでいるのです。
お母さん達になり得ないでいる、と、これこそ、その次には妻になり得ないでいるのです。
兄さんにもなり得ないでいるのです。
総てのことがみな、講論が所望ですが本体論、原理本論にプラス、先生を中心とした生活がそのまんま原理本体論であることを分からなければなりません。
分かりますか?

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「原理本体論」について

二〇〇八年八月三十一日、韓国・清平の天正宮博物館


 先生が毎回、(年頭)標語を中心として十二年間行ってきた内容がすべて残されなければなりません。だれであっても……。劉孝元氏もすべて成し遂げることができずに逝きました。ですから、『原理解説』という言葉が出てきて、その次に『原理講論』、その次に「原理本(体)論」が出てこなければなりません。真の父母、真の師、真の主人です。そうしてこそ終わるのです。そのような家庭的基盤ができなければなりません。

 今皆さんの家庭は、韓国の伝統的家庭として名のある名家の家門において守られている、父子関係の伝統的家庭制度にも及ばない、野良犬のような家庭が多いのです。それでは、天の国に入っていくことができません。

 ですから、この本も、『原理解説』、その次に『原理講論』です。教えることのできる教材です。その次に何ですか? 「原理原本論」、「原理本体論」です。父母様が生きたそれ自体をそっくりそのまま、うり二つに似せて、自分たちが写真のようになり、こちらから見ても、下から見ても、あちらから見ても統一教会の文先生に似ていて、神様が見ても「いやあ、このように統一教会の文教主に似ているのか」と言われるようにならなければなりません。それが「本体論」です。「原理本(体)論」が出てこなければなりません。

 「本論」ではありません。実体が一体となった「原理一体論」、「本体論」が出てこなければならないというのです。神様の「本体論」があるではないですか。思想界において神様の「本体論」が出てきます。根本に関することが出てくるというのです。

 何も分からない群れたちが、天の国に行って王権を相続し、おじいさんを伝道することのできるおばあさんになることができていないというのです。そして、お母さんになることができていません。そして、妻になることができていません。兄と弟になることができていません。このすべてが「講論」から来たものであるとすれば、「本体論」、「原理本(体)論」では、先生を中心として、(先生の)人生がそっくりそのまま「原理本体論」であるということを知らなければなりません。


     ◇

 今まで生きてきた女性たち(のおなか)はサタン世界のおなかでしたが、これから再びへそを蕩減してそれ以上の歴史を残さなければ、天の眷属、一つしかないその世界の歴史を相続することのできる家庭の主人になることはできません。どれほど厳格でしょうか?

 そのようなことを望んでいくにおいて、『原理解説』も実践できない群れ、『原理講論』も知らない群れ、「原理本体」を知らない群れが、天の国の全体の覇権、天の全権を相続し、それを母親の体を通して子孫万代に相続させなければならないのです。子孫たちが生まれるにおいて、本体と同じ血筋を受け継いだ息子、娘にならなければならないのですが、それができていなければ、それは母の責任です。ところが、すべて正しく生まれたと思っています。

 『原理解説』という言葉をだれがつけたと思いますか? それを劉孝元氏がつけたでしょうか、先生がつけたでしょうか? 「解説」です。その次に『原理講論』です。「講論」は劉孝元氏もよく分かりません。一日に前編、後編を七、八時間教えてあげれば、それですべて終わるものではありません。


 『原理講論』が出てきたので、「原理本(体)論」が出てこなければなりません。「本論」ではありません。「本体論」です。その「本(体)論」を成した人が出てこなければならないのです。「原理」の主人が出てこなければなりません。そうではないですか?

 『原理解説』、その次は何ですか? 学ぶ『原理講論』でしょう? 『原理講論』を聞いただけであって、『原理講論』に相応する人にはなることができていないではないですか? 分かりますか?

 神学校(清心神学大学院)の総長の名前は何ですか? 何春ですか? (「金眞春です」)。「眞春」です。真正の「眞」の字です。穏やかな所で新しい春が訪れてくることを教えてあげなければなりません。

 この本は、自分の手帳に記録した内容を書き記した本でなければなりません。先生は忙しい生活で時間を割くことができないので、「会うや否やたくさんの話をするので、それをすべて記録しなさい」と言ったのです。そのようにして手帳に記した内容を書き写した「本体論」が出てこなければなりません。そのような人がだれかいますか?

 そこの、鮮文大学でやっていた……。(「増田善彦と申します」)。増田氏ですか、あの顔がだれに似ているのかと言うと、真のお母様の父親の顔と似ています。わたしが何度か話しましたね。特別に神学大学院で教授をしているでしょう? (「はい」)。伝統が残っていなければなりません。昔、「解説」時代に講義していたものをだれよりもよく知らなければならず、眞春氏が参考にして、あの人の基盤の上に「講論」の内容を教えてあげなければなりません。「講論」だといって、言葉だけではありません。


     ◇

 雀のように、燕のように、遠い南国から帰ってきて洗濯物を干すひもに止まり、ピーチクパーチク、ピーチクパーチクと鳴きながら「春が来た」と賛美し、「子女を持つことのできる家庭理想が来る」と歌っているので、「未来の歌を知らずに訪ねてきたおまえ、死なずに生きて帰ってきてよかった」と言って食べる物を与えてあげなければならないのです。子女を生むことのできる園を用意しておいて、「自分(サタン世界)の畑を飛び回っていては死ぬかもしれないので、わたしの園から食べる物を持っていって食べなさい」ということです。それが「本体論」です。

 何結婚ですか? (「交叉交体結婚です」)。交叉は一人ですることであり、交体は、その一族と国がすることです。交叉交体結婚をしなければ天国に行くことができないという原理は教えてあげています。『原理解説』や『原理講論』にはそのようになっているのですが、交叉結婚させようという父母がどこにいますか? そのようにしようとすれば、自分たちが外国に行ってこなければなりません。外国の物を食べられない人は加担することができないというのです。

 「講論」も解説することのできない人が、国家の王たちが守る実体圏をどうして指導できますか? 今現在、分捧王は、『原理講論』ではなく「原理本(体)論」の事実を分かっている立場に立っているので、それを歴史で見れば、イエス様の前の洗礼ヨハネと同じです。

 四百年前のエリヤの代身として来たのがイエス時代の洗礼ヨハネです。その後継者の復活体として現れ、その理想の世界を、神様の本体的事実を教えてあげるべきなのにもかかわらず、それを考えることができませんでした。

 史吉子さんも、『原理講論』を中心として、「覚えて何々をしなければならない」と言っていますが、それは『原理講論』です。実体はどこに行きましたか? 自分はかかしのようなことをしているのです。かかしに頼って生きるのではありません。鳥も、行き来する主人が来れば逃げていかなければなりません。逃げずに主人になろうと史吉子さんも考えるでしょう? 「本体」である真のお母様以上の位置に立とうという話です。自分が、お母様のように堕落していない本然の息子、娘を生むことができますか? それは真の父母の種を受けて一体圏にいなければ不可能です。永遠にありえないことだというのです。

 ですから、「本体論」を受け入れなければなりません。思想、「本体論」、神様に関することを知ろうとすれば、先生がすでに説破した家庭理想の内容があります。真の愛を中心として宇宙内外のすべてのものが、その中で魅了されるようになっているのです。ほかの所で成功して輝くことのできる道はありません。

 世界平和統一家庭連合とは何ですか? 先生の代身者が、サタン世界で金城鉄壁の、万年たっても壊すことのできない城を築くものではないですか?

 天城旺臨宮殿の「旺臨」というのは、まだ本当の王ではありません。実体ではありません。ここで教育を受けたとしても実体になることはできないということです。「降臨」とはそのようなものです。

 個人時代、家庭時代、氏族時代、民族時代、国家時代、世界時代、天宙時代、神様まで、平面的にならしていくのです。その次には、僕の僕から僕、養子、庶子、子女、夫婦、父母、神様までの八段階です。家庭と世界の問題が定着するのです。それはどれほど貴いことですか? 天父主義です。

 ついに父母が天の国で一族を治め、大きくなって世界まで、アベルUNまでいけば、万国がすべて第二分捧王を中心として、神様の祖国光復の看板を付け、天一国の解放釈放が成されるのです。地上理想によって永遠不変の後代、一つの統治機構にならなければなりません。それが今すべて終わりました。

 アダムとエバをサタンがすべて奪っていってしまいました。それで、四千年間、預言を通してアベル(の基盤)が大きくなるのを待ち、イスラエル民族を中心として滅びずに苦労しました。千辛万苦を経て、孤独にさまよいながらどれほど苦労しましたか? エリヤが北イスラエルで苦労しながら八百五十のバアル神と闘い、火で燃やしてしまったではないですか? イエス様の四百年前に、エリヤが預言書のとおりに成し遂げました。エリヤの使命を持っているのが洗礼ヨハネだということを知らなかったというのです。


     ◇

 (「原理本体論」の基となるものは)内容が欠けずにすべてできています。七大条件の解説から七大条件の内容を把握してつくったのですが、先生の未来に関することを添付して、この最後に『原理講論』の骨子をそのまま入れて新しい時代と連結させておいたというのです。

 ですから、この本は貴い本なのであり、「講論」ではありません。『原理講論』というものは……。今、『原理講論』という「原理」の本があるではないですか? それは、劉孝元氏を中心として出てきたのですが、『原理講論』という言葉は、自分を中心として十二巻を代表して書いた言葉ではないですか? そうではないですか? (「今までわたしがいるときに、お父様の御言集を七百五十巻つくりました」)。ああ、ですから、すべて分かっていますが、『原理講論』より「原理本体論」を書かなければならないというのです。史吉子さんはそれを知りません。「講論」時代の主役をする人と「本(体)論」時代の実体とは違うではないですか?

 ですから、『原理講論』よりも「原理本(体)論」という言葉にならなければならないというのです。それは何かと言えば、真の父母様の生涯の内容をいちばん守った者において、アロンのようにモーセのみ言を代わりに代表できる人、今の統一教会では、郭錠煥氏とあなた(黄善祚会長)ではないですか? あなたはアベル的分捧王です。何のことか分かりますか? (「はい」)。カイン的分捧王がいくら優れていても、アベル的分捧王に、分捧王のように侍らなければなりません。

 「講論」の時は女性が先頭に立ちました。真のお母様が出てくるでしょう? 創造的女性時代に連結するためには、一般の人たちではだめです。真のお母様が生んでくれた息子、娘と一つになり、お母様の息子、その次に娘たち、カインとアベルの娘たちが生んだ息子、娘を一つにして抱き、エデンで堕落のなかった父母が、アベルUNを中心としてカインUNを一つにして即位式を終えなければならないというのです。

 四年残っています。二〇一三年一月十三日には、即位式をしなければなりません。だれによってですか? 世界の国家が一つになり、分捧王たちが自分の国の分捧王を代身して、彼らが推戴する精誠を集めて宮殿を建て、宮殿に準備されたその時代にふさわしい歴史時代の伝統を受け継いできたその骨子に橋を架けるのです。これが切れてはいけません。新しく決定した重要な部署の責任者たちは天が任命するようになっているのです。自分たちが選出するのではありません。そうするのは、すべてどろぼうたちです。天使長の時代とは変わるというのです。

 アダムとエバをすべて殺しました。その次に、四千年目のイエス時代にメシヤが来るといって、国家基準を中心として、ヤコブが勝利して選民圏となったイスラエル血族が、イエス時代に国の大統領を立て、副大統領を立てなければなりません。ところが、洗礼ヨハネは分捧王になることができなかったではないですか?

 今回(平和メッセージ十六章)の最初のページに「洗礼ヨハネ」という言葉を掲げたことは驚くべきことです。それ一つ自体が蕩減復帰歴史において人々が誤ってイエス様を殺したので、これからは、人々が分捧王を中心として、わたしがつくった教育材料を中心として、これが新しい祖国光復の旗印を立てなければなりません。そのために(アベル)UNまでつくっているのです。最後です。

 ですから、この旗印を立てるときは分捧王ではありません。実体王権です。その王は、自分が王宮をつくり、民をつくることを、すべて一人でするのですか?

 その分捧王自体が、第一イスラエルが第二イスラエルの王権を推戴して侍らなければならず、第二イスラエルは第三イスラエルに侍り、アダム時代を中心として第四次アダム心情圏時代が定着してこそ、カイン・アベルに分かれていた理想的家庭の血筋が一つになり、一つの父母が一つの子女の権威を持って天上世界にそびえ立ち、永遠に灯台のように輝くことができる祖国光復の土台が決まるのです。そのようになれば終わりです。

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信仰生活シリーズ 5
心情開拓  李耀翰
心霊を育てる生活原則 15・苦痛の中での信従

先生はみ言を語る方であり、恵みを授ける方で、いかなることにも勝利なさる方であり、すべての憂いも心配もないお方で、
私たちの重荷をも全部引き受けてくださる方であるとばかり思っていました。それゆえ先生は、私たちにも事実を話せなかったのです。
『原理講論』の復帰原理を見ても、すべて蕩減復帰の言葉のみで、先生の私語は一言一句も入っていないのです。

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第二十六回「愛勝日」記念式典の御言(前編)
天一国九(二〇〇九)年一月二日、韓国、天正宮博物館

太平洋なら、南太平洋、北太平洋、東太平洋……。海洋圏はすべて“逃避城”圏です。最も大変です。そこにどのように絶対性を……。
ですから、今回、わたしが劉正玉氏に、責任分担未完成を完全解怨成就させてしまうために、『原理講論』を修正することのできる権限を与えました。
今度、「原理本体論」というものを……。だれも手を出すことはできません。
これから絶対性の道を行くためには、劉正玉氏の後についていかなければなりません。
先生の別の道があると考えてはいけないというのです。わたしの話が何のことか分かりますか?
劉正玉氏、そのようなことを知っていますか? そのような何かがあるでしょう? 
この訓母様と関係を結ぶのを少しためらうところがあります。ありますか、ありませんか?
(「ためらうところはありません」)。もうないでしょう。きょうからは、今からはありません。今まではありました。

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第二十六回「愛勝日」記念式典の御言(後編)
天一国九(二〇〇九)年一月二日、韓国、天正宮博物館

これからは『天聖経』以外はありません。『平和神經』以外に、「家庭盟誓」以外に、『天聖経』以外に、その次に『原理原本』は皆知っているではないですか?
『原理解説』、『原理講論』……。『原理講論』が出てきた後に『原理解説』を読みましたか? 
今度、『原理本体論』が出てきた後に、『原理講論』はその中にすべて入っています。
『原理講論』を講義する考えは持っていないではないですか? それは系列が違います。
郭錠煥氏の系列ではありません。表題が違うではないですか? 責任分担圏というものが……。

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「原理本体論」について
二〇〇八年八月三十一日、韓国・清平の天正宮博物館

先生が毎回、(年頭)標語を中心として十二年間行ってきた内容がすべて残されなければなりません。だれであっても……。
劉孝元氏もすべて成し遂げることができずに逝きました。ですから、『原理解説』という言葉が出てきて、
その次に『原理講論』、その次に「原理本(体)論」が出てこなければなりません。
真の父母、真の師、真の主人です。そうしてこそ終わるのです。そのような家庭的基盤ができなければなりません。
今皆さんの家庭は、韓国の伝統的家庭として名のある名家の家門において守られている、
父子関係の伝統的家庭制度にも及ばない、野良犬のような家庭が多いのです。それでは、天の国に入っていくことができません。
ですから、この本も、『原理解説』、その次に『原理講論』です。教えることのできる教材です。
その次に何ですか? 「原理原本論」、「原理本体論」です。
父母様が生きたそれ自体をそっくりそのまま、うり二つに似せて、自分たちが写真のようになり、
こちらから見ても、下から見ても、あちらから見ても統一教会の文先生に似ていて、
神様が見ても「いやあ、このように統一教会の文教主に似ているのか」と言われるようにならなければなりません。
それが「本体論」です。「原理本(体)論」が出てこなければなりません。
「本論」ではありません。実体が一体となった「原理一体論」、「本体論」が出てこなければならないというのです。
神様の「本体論」があるではないですか。
思想界において神様の「本体論」が出てきます。根本に関することが出てくるというのです。
何も分からない群れたちが、天の国に行って王権を相続し、おじいさんを伝道することのできるおばあさんになることができていないというのです。
そして、お母さんになることができていません。そして、妻になることができていません。
兄と弟になることができていません。
このすべてが「講論」から来たものであるとすれば、「本体論」、「原理本(体)論」では、先生を中心として、
(先生の)人生がそっくりそのまま「原理本体論」であるということを知らなければなりません。