2001年夫婦世界旅行のつづきです。パリ6日目。昨夜ホテルの部屋で起こった爆発事件のカタをつけねばなりませんが……?







part172ノートルダム寺院・異形のものたち





要約: 昨晩起こった部屋のランプの爆発に関して、レセプションは「直しておく」の一点張り。パリも残り2日なので、とりあえず後始末はホテルに任せ、今日はシテ島以北の地域を散策することにし、まずはノートルダムへ! 憧れの異形のものたちに会いにいった。












朝食を終えてレセプションへ行くと、いつものチョビ髭レセプショニストが、うるさそうに、「分かってます。電気を換えておきますから。きっとシャワーの水がかかったんだと思いますよ~。」ときたもんだ。





洗面所は壁できっちり仕切られていて、部屋の中に水が飛ぶわけがない。まして、夫は歯を磨いていたのであって、シャワーを浴びていたわけでもないぞ。





しかし、何を言っても、とにかく「修理しておく」の一点張り。こちらの非を責めてくるという理不尽な様子もないので、まぁ、いいか。とにかくこちらは何もしていないのに、突然部屋のランプが爆発したということは認めてくれたようだ。シーツの焼け焦げた穴も、絨毯に張り付いたガラスもすべてそのせいであることも念を押した。





電球を換えようとすれば、例の破裂したライトを見るわけで、部屋に散乱したガラスも見るわけで、そうすれば事情も飲み込めることだろう。ここは一旦すべてをホテルに任せて、我々は外出することにした。





パリも残り2日である。今日はまず念願のノートルダム寺院に行った。セーヌ川に浮かぶシテ島にある寺院である。





寺院正面は、丁度朝日を背にして黒々とした巨大な壁のように見える。厳めしく、眩(まぶ)しく、見上げるものの目を細めさせる。まるでノートルダム寺院から陽が昇るようだ。





入り口は世界各国の観光客で既に長蛇の列だった。朝日に目を細めながら長らく行列に並んでいたせいか、ようやく入場した聖堂の中はほとんど闇のように感じられる。しばらくして暗さに目が慣れてきたが、彫像や絵画などは目を凝らしてもよく見えない。





お布施用の小さな薄い円柱形の蝋燭が何十個もあちらこちらに燈されて、薄闇の中に揺れている。ささやかな、しかし精一杯の人々の祈りがそっと集まって揺れているようで、敬虔な美しさを感じる。





「宝物殿」 には古そうな王(?)の帽子(?)や、法衣(?)、宗教儀式に使われたらしい「聖体顕示台」などが展示されていた。さほど精緻な作りには見えないが、大きな宝石が贅沢に散りばめられている。我々には猫に小判。ほほぉ。きれいなものですね。聖職者の癖に贅を尽くしておられましたな? で終りだ。宗教という名の権力の臭いを嗅ぎ取ってしまう。





さて、一旦外へ出て、いよいよ塔に上ろうとすると、入り口には30mはあろう人の列。また並ぶのぉ? とウンザリするが、ノートルダムの塔の上にある彫刻こそが見たかったので、この時ばかりは気の遠くなりそうな行列に加わった。





列はじりっじりっと進んでいたが、ある時ぴたりと動かなくなった。そのまま1時間ほど列は動かない。さすがに他の人々もイライラしてきたご様子。全く動かないなんて、誰だってイライラするよね。どうなってるの? 





列に並んでいる人の中には、ちょいとサンドイッチを買ってきて、列に並びながら食べている人もいる。ちょうど昼時である。長いバゲットパンにチーズやらハムやらが挟まったシンプルなサンドイッチに彼らはうまそうに齧(かぶ)り付いている。う、うまそうだね。





ちろりと夫に哀願の眼差し(サンドイッチが美味しそうだよ? すぐそこにサンドイッチ屋さんがあるよ? えへっ♡ )を投げかけると、「なーんであいつらは、あんなパサパサなパンなんぞ食べられるのかね? しかも、飲み物を一切飲まない。味噌汁を飲まないで、よくもまぁ、ものが食べられるもんだ。気が知れないね。」 ……牽制されてしまった……。 





やがて時計の針が1時半を過ぎた頃、列が突然どっと進んだ。おっ。どうしたんだ? 見ると、先ほどまで姿の見えなかった入り口の係員が、歯をシーシー言わせているではないか。昼飯食ってたんかいっ!? その間、入場希望者を突っ立たせて並ばせたまま放っておいたんかいっ!?





11時40分から待ち始めて、塔の入り口に辿り着いたのは実に2時を過ぎていたのであった。おのれ……。まったく悪びれた様子もない入り口の係員をちろりと恨めしげに睨み、かといって文句を言うほどの怒りもなく、塔に踏み込む。





私ときたら、「塔」とはすなわちロマンティックかつドラマティックなものと思っていた。何か神聖なまでの秘宝が封印れている場所、何かが天から降りてくる場所、 人間が大地に突き立てた、空へと続く垂直な道。そんな感じ? “お姫様が幽閉されている所”とか、「陶酔の時」が来たる所(ランボオの詩、「最高塔の歌」)とか、文学作品から勝手に塔に対する幻想を抱いていた。





塔とはすなわち螺旋階段のことなり! ……とは、わかっているようでわかっていなかったことよ。塔の中に入ると、狭く薄暗い螺旋階段をグルグル上がっていくしかないのであった。なかなかしんどい。後に人がぴったりと続いてくるし、待避所のようなスペースもないので、ひたすらのぼるしかない。





 螺旋階段の所々には10cm幅ほどの細長い窓が作られていた。金網がかけられているが、窓ガラスなど嵌(はま)っていない。こりゃ、冬は寒そうだ。細かい雪が吹き込んで底冷えのするこの階段を、司祭様が黒い厚手の法衣を身に纏い、こつこつ、こつこつとのぼっていく後姿が目に浮かぶ。





こつこつ、ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐるのぼり続ける。石の階段は人の踏む辺りが滑らかに凹んでいる。歪(いびつ)に滑らかな階段を見ていると、余計目が回って気持ち悪くなってくる。





ようやく最上階に着いた! と思ったら、ノートルダム寺院のグッズを売る土産物屋ではないか。なんだ、ここは? 脳が “螺旋酔い” でグルグルしていて、状況がよく飲み込めない。





見ると、私のお目当ての彫刻の写真が絵葉書になって売られている。思わずその葉書を手に取って、「これっ! これは、どこに? 私はこれを見に上ってきたのだけれど?」 と売り子に詰め寄る。「なんだ、買わないの?」ってな顔で、「もっと上に上っていけば見られる」と教えてくれた。まだ? まだのぼらにゃならんのか。がっくり落とした私の肩を、「まぁまぁ」と軽くぽんぽん夫が叩く。どうしたの、あなた。今日はやけに余裕じゃないの? おのれ……。くやしい。ええい。まだまだ。





ネジを巻き直して、土産物屋を出た所に、さらなる階段が続いていた。またもや狭い螺旋階段を上って行く。ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐる……。目が回ってくる。階段の途中にある隙間のような窓から見えるパリの街が、だんだん小さくなって行く。





階段を上り切り、風の吹き渡る屋外渡り廊下のような所を進むと、ようやく目の前に念願の奇妙な彫刻が現われた。通路をすっぽり包むように張り巡らされた金網が邪魔をしてかなり見にくい。しかし、手を伸ばせば届くような近さに夢にまで見たノードルダムの異形のものたちがいる!





角のある鳥のような、烏天狗のような、鬼のような、妖怪のような、人間になりそびれた山猫のような、奇妙なイマージュたちが、ノートルダム寺院の屋上渡り廊下(?)の縁(へり)のそこここからパリを見下ろしている。





みな実に悪魔的である。日本の “地獄絵図” に描かれているキャラクターとよく似ている。餓鬼である。落ち窪んだ眼窩は大きく見開かれ、獲物を狙うハイエナのようでもある。その眼窩が見据えているものは、飢餓か、虚脱か、虚栄か、はるかなる恩寵か……。





このような彫刻をなぜ施したのだろうか。日本と同じように、魔除け的な意味があるのかな?





おお、あった、あった。私の一番のお気に入り! 頬杖をつく餓鬼! 写真の通り、ちょっとアンニュイな面差しで、物思いに耽っている。ああ。お前に逢いに来たんだよ。





どうして私はこの像にこれほど惹かれるのだろう? 本物を目の当たりにしても、やはり何とも言えない親近感を覚える。餓鬼のくせに頬杖をついているところがいい。頬杖をつくポーズが私はとても好きだ。それは「想っている」ポーズだからだろうか。「緩んでいる」ポーズだからだろうか。「浸っている」ポーズだからだろうか。とにかく、好き! 





ああ、この彫刻を持って帰れたら! いや、しかし、こうしてパリの街を見下ろす位置にいるから、パリの中空で眺めるから、この彫刻たちは素晴らしいのだ。





朝空の中で、昼の眩しい夏空の中で、夕暮れの中で、夜空の中で、刻々と様相を変えるであろうこれらの異形のものたちをずっと眺めていたかった。が、他の観光客が後から後から上ってくるので居座っているわけにもいかない。名残惜しくはあったが、次へ移動しなければ。





人の流れに促されるように、次の階段を上っていく。寺院最上階のスペースに巨大な鐘があった。直径が2mはありそうだ。柱も台座も木製。太いが相当年代物らしい古い木である。もう腐っているのではないかと思われる。





他の観光客が「おお。大きい鐘だね~!」と驚嘆の声を上げる。「ふっ。このくらいで驚いていちゃいけませんぜ。ひのもと日本の三井寺には、その昔弁慶がずりずり引いて運んだという直径3mの鐘がありますぜ。」と心の中で妙な優越感を感じる私であった。 





(日本の寺の鐘の音と西欧の教会の鐘の音……形はよく似ているのに、どうしてああも音色が違うのだ? 寺の鐘というと、「カラスがカァカァ鳴きながら塒(ねぐら)に帰る様を眺めつつ、柿を齧(かじ)る夕暮れ」のイメージがあるが、教会の鐘というと、「白い鳩が飛んでいく空を高く見つめながら、十字を切って祈る」イメージがあるのは私だけ?)





しかし、今まで階段も壁もすべて石で出来ていたのに、ここだけどうして木製なのか。よくわからない。歩いてさえしんどいこの塔の最上階に、一体どうやってこの巨大な鐘を運んだのだろう? 大きさは三井寺の鐘に負けるとはいえ、まるで聖者の屍のごとき威厳を湛えたこの鐘は、今も鳴っているというのだろうか? (いや、鳴らしたら絶対落下だ。大惨事だ。)





“鐘の部屋”を降りて、さらに奥へ進むとパリの街が一望できる屋根に着く。東西南北ぐるりと見て回る。北の方に、小高い丘が見えた。モンマルトルの丘である。丘のある風景というのは、とてもよいものだ。なだらかな大地の起伏が、穏やかな生命感を見る者に感じさせるからではなかろうか。





パノラマの屋根を一巡りすると、「さぁ、帰っておくれ! 」と言わんばかりに下りの階段が待っていた。狭い階段をまたもぐるぐる、ぐるぐる、目を回しながら降りる。人波に急かされるように歩いた慌しい見学だったが、それでも塔に入ってから1時間以上が経っていたのだった。





地上に降りてもしばらくは去りがたく、ノートルダム寺院を別の方向から眺めてみる。ノードルダム寺院はどういう造りになっているのか、見る角度が違うと全く別の建物のように思われるのだった。スカートの裾を広げてちょこんと座っている貴婦人のように見える角度もあれば、怒りを湛えて子供の前に仁王立ちする母親のように見える角度もある。





Notre-Dame(我々の貴婦人=聖母マリア)」。ノートルダム寺院は、日本語に訳してしまえば、「聖母教会(寺院)」? 名前の割には、聖母像を見た覚えがない。見そびれたか? “異形のものたち”ばかり夢中で眺めてきたが、あの薄暗い聖堂の奥に、聖母マリアが安置されていたのだろうか? (追記:“見そびれ”だ! 堂内には聖母像があったらしい。おらら~。)





う~む。いったいどこが聖母教会なのか、わからない。見る角度によって様相が違うというあたりが、「聖母」を象徴していたりして? う~ん。ど~なんでしょ?





取り留めのないことをあれこれ考えながら、しばしベンチで休憩。今見てきた塔の上からの風景が、吸い込みすぎた酸素のように胸を苦しくさせる。はぁぁ……。ため息ばかり出る。しかし、地上から見上げるノートルダム寺院の姿も、これまたなかなかよい。





なんといっても屋根がみごとだ。ゴチック建築と言われる細い塔を幾つも突き出している屋根の稜線は、見上げるものを、“空を望む心持ち”、“祈りの気持ち”へと導いてしまうようだ。


           つづく


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