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加藤修滋のブログ

日仏シャンソン協会活動記録及びシャンソン界のニュース等

日本では「群衆」と言う題名で歌われる「Que nadie sepa mi sufrir」。

フランス語訳詞者の”Michel Rivgauche”とパリのSACEM内の食堂で話し合った事がある。

 

 

日本の音楽評論家は、この作品を「ペルーのワルツ」と言うので、ミッシェルに真偽の程を確かめた。

すると「この歌を作曲したアルゼンチン人の”Ángel Cabral”がペルーの舞曲のリズムで書いたもので”ペルー風ワルツ”と言ったところだネ」と教えてくれた。

 

 

邦訳は「誰も私の悩みを知らない」と言い、アルゼンチンでこの楽曲をしった”エディット・ピアフ”がオランピアで創唱。

 

 

 

余談ながら、”恥をかいた”音楽評論家の話・・・。

 

ラテンのコンクール講評で某審査員が「誰も知らない私の悩み」と発言し、応募者から「それってアメリカの楽曲です!」と一喝され、翌年からコンクールが尻すぼみになったとサ!

ひと言で言えば壮大なスペクタクル。

国家の威信をかけた大事業。

これ以上のオリンピック閉会式はないと言うプライド。

 

 

17日間、329競技の終了を祝う閉会式としては、これ以上は無いと言う演出は「流石フランス」と思えるもの。

 

 

冒頭は白の衣装に身を包んだ110人のアクロバット・ダンサーと全身ゴールド(金メダルを暗示?)のコンテンポラリー・ダンサーが静かな落ち着いた演技。

 

 

途中から雰囲気は一転して「パーティー」をテーマに華やかな場面。

 

 

オーケストラ、合唱団、ロック・バンドがサンドニのスタッド・ド・フランスを興奮の渦に巻き込む中、空から「トム・クルーズ」が降り立ち花火が一斉に打ち上げられる。

最も印象的だったのは「レオン・マルシャン」による燈火消燈式。

 

 

派手なイルミネーション・パフォーマンスは、かつて新旧凱旋門を結んで「ジャン・ミッシェル・ジャール」がHIMARS(高機動ロケット砲システム)スーパー・ライト・チェンジャー、スカイ・ライト・ステッカー等を流用したもの。

 

 

一転、おごそかな「バッハ」会長の演説。「平和への文化を作った」と胸を張った!

 

 

そして、いきなり場面はアメリカへ。

最後はフランスの歌を英語に訳した「マイウェイ」で締めくくる大がかりな国家催事でした。

 

 

以上、ご報告まで・・・。

幾度も私達の活動を取材・報道して下さった中日新聞の「小島哲男」氏が退職された事を知りました。ご本人から直接メールをいただき恐縮しております。

 

 

編集委員をなさっておられた頃、大きな記事を書いて下さいました。

美術関係に造詣が深い方のはずですが「エルム」の音楽活動に関しても的確な内容で、衆知下さいました。

 

 

中日新聞とは古いかかわりで、母が小学校教員時代に社長の「加藤巳一郎」氏のご子息を教えたり、臼田ご夫妻(特に川本公子さん)そして「加藤ハツ館長を偲ぶ会」に際し「梅田歳晴」記者が他社に先駆けて特ダネを報じられたり・・・。

 

 

今回、退職されるにあたりご丁重なお知らせに「小島哲男」氏のお人柄を思い出します。

私は車イスでブログを書く人生ですが、小島様は書物刊行なさるのでは?と期待しております。

失礼ながら互いの益々の人生に乾杯!

共同通信がイラン大統領に強硬派を押さえ改革派「ペゼシュキアン」氏が就任したと報じた。

トルコ系の父とクルド系の母の間に生まれ、宿命を背負っていく事になる。

 

 

既にヒジャブ着用義務化を巡って、非着用容認の彼は、自身の命も狙われかねないと警告するサイトも有り。

 

 

時期を同じくしてフランスでもオリンピックを前にトンデモナイ選挙結果となり紆余曲折を経てマクロン大統領が巻き返して左派連合が極右政党に対抗できるようになった。

 

 

余談だが、議長席の左が左派、右が右派の起源だと言う。

ベラルーシが「海協力機構首脳会議」にて10ヶ国目の参加国となったと共同通信が報じた。

 

 

会議は、カザフスタンで開かれ「アルマ・アタ宣言」が出された。

プーチンが気付いていないとは思えないが(あえて見ぬふり?)カザフスタンはロシア離れしているとの識者の言葉有り。

このままではロシアの暴君が自国に及び「第2のウクライナ」になるのでは・・・との不安。

 

 

我々にとっては理屈はどうでもいいから、人と人が殺し合うのだけは避けるべき!

鳥影社出版案内に「三木原浩史」「吉田正明」両先生の共著を見つけました。

 

 

三木原先生には「浜松シャンソン・コンクール」で私が副審査委員長をした事からご縁が出来ました。このコンクールは2006年に始まり、現在「浜松シャンソンまつり」と名称を変えて河野氏ご家族総出で温かい雰囲気で継続。

 

 

今年の出場者歌唱曲の中には「Je suis malade(詞:Serge Lama、曲:Alice Dona)」

「Chante la vie chante(詞:Pierre Delanoe、曲:Michel Fugain)」

と言う私の友人達の作品があり、どちらも私の訳詞を「法定訳詞」として登録してくれたものです。

 

 

日仏両国に恩人・友人が持てて幸せです。

何故か70才台で人生を終える人が多く、それを私は「燃え尽き症候群」と名付けた。

ひたすらに生き抜いて倒れた人達の何と多い事か!

 

 

70才を過ぎると次は90才台で亡くなる人が多いのも不思議。

 

 

今月のJASRACの会報にも70才台5名、90才台3名の訃報が載っている。

これらの人の名前と共に作品も残る事は、ある意味幸せな人生だったと思います。

 

 

私の場合は代表作として「ラスト・リサイタル」を挙げて欲しいですね!

 

▼YouTube「ラスト・リサイタル/鈴木壮麻」

https://youtu.be/xch-ntsAR0s?si=89qxBaBHKIt3uRZL

 

平和サミットに先んじて、プーチンは2つの要求を突き付けた。

 

① ウクライナ4州からのウクライナ軍撤退

② NATOへのウクライナ加盟断念

 

まったく「盗人たけだけしい」の極み。

 

 

一方、ネタニヤフは、パレスチナでガザ攻撃するだけでなくレバノンのヒズボラまで敵に回している。

 

 

ゴラン高原に向けてロケット弾を撃つ報復合戦で平和を遠ざける愚行。

いつまで続くの惨事。

私のフランス人アーティスト、最初の友人となった「モーリス・ファノン」。

 

 

末期ガンの痛みに堪えつつ初来日(そして、それが最後の来日となりました)をし、パリにある彼の店「ル・コネッターブル」と私の「カフェ・コンセール・エルム」姉妹提携の為に、ホテルナゴヤキャッスルで映像を残しました。

 

 

当時、フランスではよほどの大スターでなければVTR発売されない時代で、テレビ出演をしばしばしない限りきちんとした映像が残る事はありませんでした。(ライブ・ステージの写真ですら、珍しいもの)

 

 

それにも関わらず彼の死後、友人達の間でその人生を映画にしようと言う話が持ち上がり、代表曲「スカーフ」を日本語が私、フランス語は「ジョルジュ・シュロン」、スペイン語を「ジャイロ」の歌声そして、私の母が筆で書いた日本語訳を添えて完成させるはずだった所に運悪くコロナ騒動。

 

 

私の障害も重なって遂に未完のままとなりました。残念ですが、いつの日にか私達の手元に残された多くの映像を使って完成させてくれる人が現れる事を夢見ています。

 

 

私が高校3年生で、自分の親や祖父母のごとき人達に混じって「東海現代詩人会」に最年少会員として参加。

 

「アンソロジー」に発表した作品「うおっち」がある。

 

 

(加藤修滋 リサイタルP96より)