加藤修滋のブログ

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日仏シャンソン協会活動記録及びシャンソン界のニュース等


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フランスの音楽著作権団体SACEMの受付完了印の押された書類到着!

シャンソン大使も歴任したシンガー・ソング・ライター「ヴェルムーラン」の

「朝の終着駅」が法定訳詞に!

 

「カヴァー申請」(訳詞をつけるだけで、権利放棄)だけでもむつかしい昨今、

スムーズに「法定訳詞」として認められたのは、驚き。

 

この曲を最初にCD録音した「法定訳詞創唱者」は、浜﨑久美子。

シャルル・アズナヴールがバック・アップしていて、彼女の歌う

新しいアズナヴールの曲を4曲も「法定訳詞」として認めていることを知る人は少ない。

 

それだけでなく、ミッシェル・フューガン、ミッシェル・ジュールダン、リンダ・ルメイ等

多くのアーティストが彼女の歌うシャンソンを「法定訳詞」として認めていることからも、

その歌唱がフランス人好みであることがわかる。

       


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まずもって、イラク戦争で群衆に引き倒されたフセイン銅像の映像について触れたい。

その時、私はパリで衝撃映像を見た。英米のメディアとは別アングルのアルジャジーラの映像

からは、群衆の歓喜が読み取れない。

撮影角度・方向がちがうだけで、こんなにも事実がちがって見える!とショック。

以来、ニュースは複数メディアで、なるべく多くを比較するようにしている。

 

ところが、それ以上に残念なことが今、身近で起きていることに黙っていられない。

それは、私の友人=シャルル・アズナヴール94才最後のステージに関して。

 

<9月17日(東京)ではなく19日(大阪)が、ファイナル・ステージなのに……>

 シャルル逝去に伴って、94才最後の日本公演として9月17日東京でのコンサートへの

賞讃記事・評論家寄稿が続いた。

でも、9月19日大阪でのコンサートが彼の人生最後(=世界で最後)のステージ。

    

東京と大阪ではステージの様子は全くちがうのに、それを報ずることなく、

中には「3,800人、満席」という誤報も。

私は友人として、9月17日の東京、19日の大阪、共に客席から見守りました。

そして東京では楽屋で、大阪では宿泊ホテルで面談し、忘れることのできない言葉

(それを、私は仲間たちと共に伝えるべき責務と感じている)を交わした。

世界中のシャルル・ファンのうち大阪公演へ出かけた1,000人だけが、

彼のファイナル・ステージの鮮やかなラスト・シーンを見ることができた!

日本のメディアが、それらの人を通じて報じるべき事実を集めることなくして

シャルルの真の姿が後世に伝えられないのではないかという疑問をずっと抱いたまま、

今日に至っている。

 

<杖と花束&プレゼント>

5月来日予定直前に転倒し、上腕骨折。完治とのことだったが、

実は、痛みのあるまま9月に来日し、振替公演挙行。

シャルルは、私に会うなり「約束は守ったよ」と言った。

2年前に来日の折、「また来日して歌うよ。平和な世界の為に……」と約束したことを覚えていた。

唯一の被爆国=日本での公演は、シャルルによってアルメニア公演同様、

特別な思い入れがあるもの。

それゆえ自作の反戦歌「美しき絆」に、日本語訳をつけるよう依頼し、

いち早く法定訳詞登録をしてくれたと思われる。

シャルルは<平和希求>の使者として訪日を約束し、

それを守る為の使命感を携えて来日公演を挙行。

 

9月17日(東京)、彼は歌い終えた後、カーテンコールで(がまんしきれず)杖を手にして登場。

ステージに立つ者としては見せたくない姿だが、そうせざるを得なかった。

ところが、9月19日(大阪)は、プログラムの半ば過ぎで、もう杖をつき始めた。

東京公演で、いかに疲れ果てていたかの証。

前日、9月18日に大阪のホテルで会った時、彼は杖をついて車から降り、

「とても疲れている。腕も痛い」と言って顔をしかめた。

そんな弱音を吐くシャルルを見たのは30年で初めて。

9月28日、帰国直後にもかかわらず、パリでFrance 5(TV)スタジオ入りの時は、杖をつかずに歩行。

(しかもインタヴューに答えて「100才のコンサート」を口にしていた)

東京では、花束を一度受け取ってからマネージャーに渡していたが、

大阪(地域柄、酒等物品が多い)では「腕が痛いから」と、

直接マネージャーに受け取らせるシーンにも驚かされた。しゃがむことすら苦痛だった。

 

<歌声も、リズムのノリも、表現意欲も、大阪の方が東京より上>

東京での声の伸び、張り、大阪の方が良好。疲れがひどいと言っていたのに、リズムのノリも、

更に「歌に込められた主張」(注:後述するアストル・ピアソラが私に語ったシャルル評)も明確。

東京も大阪も同様だったのが「青春という宝」の1番をディクションで、メロディーをカットして、

ナレーションと歌の中間表現(タンゴのレシタード風)で、2番から伴奏を入れたスタイル。

言及している人がいないが、これは「青春3部作」(青春という宝、ラ・ボエーム、帰り来ぬ青春)の中でも

「青春という宝」が、いかにその詞の内容が大切かを物語っている。

 

フランスでは、せっかく自分が作曲したメロディーもリズムも奏でることを放棄してまで、

伝えるべき詞(ポエム)がある曲に限って、この手法を使う。

もちろんフランス人の間での楽曲評価としても、

シャルル自身にとっても「青春という宝」が特別なものであることの証明。

      

 

<垣間見た2つの顔=アーティストとして、そして父親として>

私の音楽の師であり、友人でもあったアルゼンチンのアストル・ピアソラの言葉を、

パレ・デ・コングレ(パリ)でのリサイタルの折、

楽屋でシャルルに伝えた時の誇らしげな笑顔を忘れられない。

“アズナヴールのシャンソンと私の音楽(俗に言う前衛タンゴ)”との共通点は、

躍動するリズムと哀愁のメロディー。歌に込められた主張、とりわけ“愛”。

 ちょうどその時、娘カティアが入って来て

“パパ、お腹減った。サンドイッチ買うからお金ちょうだい”と言った時、

瞬時にして優しい父親の顔付きとなったことも……。

 

<弱者への優しい眼差しと平和希求の曲作り>

お客様・ミュージシャン・スタッフをとても大切にし、

その絆を一瞬にして断ち切る戦争を憎む視点での反戦歌の数々。

マイノリティーへの優しい心遣いが織りなされた作品……。

同性愛者の歌を発表し、国際障害者年に先駆けて手話入りの歌を、

そして移民たちへのメッセージ・ソング……。それらの熱い想いを込めた作品郡も、

彼の多くのラブ・ソングに覆い隠されてしまいがち。

シャルルが、いち早く反戦的シャンソン「美しき絆」の日本語訳詞を私に依頼した理由は

<平和希求>活動を続ける私たちへの応援の意味がある。

私の日本語訳詞をSACEMとJASRACに法定訳詞として登録をしてくれたことは言うまでもない。

 

<平和のシンボル=オリーヴ・オイルと、アズナヴール農園のオリーヴ油>

9月17日東京公演の楽屋へ私を招いたシャルルは「あなたの健康の為に」と言って、

1ℓのオリーヴ油缶を新しい著書と共にプレゼントしてくれた。

 翌日、大阪のホテルで会った時も「昨日のオリーヴ油で、ママKATOのように元気で長生きして下さい。

オリーヴは平和のシンボルです。私が自宅の庭で育て続けたものです」と、重ねて<平和希求>の願いを強調。

20年以上前から彼が育てたのはオリーヴ・オイルだけでなく花言葉の「平和」だった。

彼の息子ミシャは、シャルルの死を悼んで詩を書きました。

その中にも、そのオリーヴに言及した一節がある。

 

Adieu mon pere , adieu mon ange , mon amour .

(さようなら父よ、さようなら私の天使、私の愛する人よ)

La maison se dresse toujours au milieu des oliviers .

(家は今も変わらずオリーヴの木の真ん中にそびえ立っている)

 

     

 


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---『PONT NEUF』(シャンソン情報季刊誌2004年夏号)より---

 

去る5月3日、パリ郊外のSACEM(フランス作詞家作曲家

楽譜出版社協会)本部に於いて、私に対する特別功労賞の

メダル授与式が行われました。

SACEMは、日本のJASRACと同じ音楽著作権団体で、

その本部VIPルーム(ジョルジュ・オリーの間)にフランス音楽業界

の著名人60人が集まって、祝賀パーティーも開かれました。

シャルル・アズナヴール、ジャック・ドマルニ、モーリス・ファノン、

クロード・ルメール等の偉大なるシャンソンや、パトリシア・カース、

パトリック・ブリュエル、フランソワ・フェルドマン等の新しいシャンソンを、

原詞に忠実な訳詞をつけて日本に紹介した功績に対して与えられたものです。

もちろん、日本人訳詞家として最初の栄誉だそうです。(同様の賞を1982年に、

アルゼンチン音楽著作権・演奏者教会=SADAICからもいただいて、

2ヶ国からの受賞は日本人初)。

 

とりわけ、愛知万博グローバルイメージソング「ブラボー!ムッシュ・ル・モンド」

を世界各国の言葉とリズムで普及させたことが賞の第1理由になっていたので、

その作者、ピエール・ドラノエとミッシェル・フューガンをはじめ、ジャック・ドマルニ

クロード・ルメール、ミッシェル・ジュールダン(人気作詞家)、フランク・トマ(「サヨナラ」

の作者)等、ビッグなアーティストが数多く集まってくれました。

私にしてみれば、通常、各々のマネージャーを通じて個々に面会することですら

困難な人たちが、一同に会して、逆に私を迎えてくれたのですから、

天にも昇る心地でした。

 

でも、本心を言えば、何より嬉しかったのは、その前日の出来事です。

80才を記念するシャルル・アズナヴールのリサイタル(約1ヶ月、10万人を集めて)

会場、パレ・デ・コングレの楽屋に招かれ、5月2日の夜、

開演前の忙しい中、30分もアズナヴールと話しができたのです。

おまけに、“今、まだ化粧前なので(注・ジョーク)終演後に一緒に写真を撮ろう。

渡したいものもあるし…”と言い、

“コンサートの前と後の両方会う日本人は、君が2人目。

最初は、アシハラ・エイリョウ…”と言ってくれました。

素晴らしいコンサートの興奮さめやらぬ中、楽屋口へ行くと、

多くのファンが待っていました。

かき分けて入ろうか、どうしようか?と考えていたら、“ムッシュ、カトウ”という

声。ベースのトニー・ボンフィスでした。レーモン・ルフェーブル・オーケストラの

メンバーとして来日した時に会っただけなのに、覚えていてくれたのです。

 

楽屋へ入ると、“明日は、シュウジにとても立派な賞が与えられるが、

私はこうしてリサイタルをしているので行けない。かわりに、祝辞を書く”

と言って、眼の前で、メッセージを書いてくれました。

そして、“化粧してなくても、さほど変わらなかったかな?”と笑いながら、

写真も一緒に撮ってくれました。私にとっては、何よりのプレゼントで、

5月3日SACEM会場にて、そのメッセージをジャクリーヌ・ダノが代読してくれ、

大きな拍手がありました。

 

アズナヴールが、一番嬉しそうな顔をしたのは、かつて、アストル・ピアソラが、

私たちのライヴ・ハウス「カフェ・コンセール・エルム」へ来た時に残した言葉を

伝えた時でした。

“アズナヴールのシャンソンと我々の言葉(注・当時、異端視されていた

ピアソラタンゴ)との共通点は、躍動するリズムと哀愁のメロディー。

歌に込められた主張、とりわけ「愛」”

 

                        日仏シャンソン協会日本支局長 加藤修滋

 

 

 

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