私にとって親友以上の存在が亡くなって、少し時間が経った。
「グラシェラ・スサーナ(本名:ムリオ・グラシェラ・スサーナ)」
昨年11月19日の朝、心停止によって逝去、71歳だった。

加藤ハツ館長を「私の日本のお母さん」と言って慕い、mss会館2階でのコンサート、1階でのライブも数多く行っていた。

愛知県芸術劇場で開催した「加藤修滋作詞・作曲・訳詞リサイタル’94~故モーリス・ファノンに捧ぐ~」には、「サンドラ・アロンソ」でのコンビでゲスト出演。

「サンドラ・アロンソ」は、15歳でブエノスアイレス・フォルクローレ・コンサート=コスキンで優勝し、天才少女と言われた存在。
ちなみにスサーナは、17歳で「アルゼンチン・ラファルタ州タンゴ・フェスティバル」で最優秀新人賞を受賞している。
このリサイタルで2人は、私の代表曲「ひととき」「ラスト・リサイタル」を素晴らしいハーモニーのスペイン語で歌ってくれた。
その後、スサーナは「ラスト・リサイタル」を日本語でも歌い、レコーディングしCD収録している。それが日亜両国で最後のCDとなった。
姉夫婦(クリスティーナ&ウーゴ)の2歳年下だが、自動車事故で夫婦とも亡くなった。姉夫婦の2人の子供はスサーナが引き取り、自身の子供2人、母親を養う為に1年の半分を日本へ出稼ぎに来ていた。
彼女の日本での人気は高く、「アドロ」「サバの女王」など発売したLPを積むと富士山より高いと言う伝説を残した。
また、日本びいきで、長男に「タロウ」、長女に「ハナコ」と命名するほど。
1972年の日本デビュー後、彼女は姉の形見のギターを盗まれ、大切な糖尿病治療薬まで盗まれている。
その後自宅が火事で焼失。その際のケガで眼がほとんど見えなくなり、ステージへ上がるにも手を引かれながら・・・となった。
来日の折、彼女の治療費を捻出する為に、エルム歌手が中心となって彼女の治療費を集め、日本の病院で手術、成功した時には涙を流して喜んでいた事を忘れられない。
日本での活動が多かった為、アルゼンチンでは目立った活躍が出来ず、夫君「アルベルト
・フォンタン」は若い女性と駆け落ち。理由は、日本人歌手のマネージャーに、レズビアンを教え込まれたとのもっぱらのウサワ。
そうした事を考えると、彼女の人生は決して幸せではなかった様に思う。
心優しい彼女は、エルム常連客であるカーコの求めに応じて、ツーショット写真を残している。
「グラシェラ・スサーナ」がヒット曲を出す前、ホテルナゴヤキャッスルの展望レストランで1ヶ月出演し、私は舞台真ん中の席でステージを楽しんだ後、屋外にある名古屋城の桜の木の下で、互いにカタコトの言葉で話し合った。
幸いな事に司会をした「内川女里子」は、スペイン語が出来るので難しい事は彼女が訳してくれた。
彼女は、私の友人で日本唯一のシャンソン・バンド「アンサンブル・ウーテルプ」リーダー山田幸司君がご主人、ご縁です。
一時代を築いた「グラシェラ・スサーナ」の人生に想いを馳せつつ、合掌。






