加藤修滋のブログ

加藤修滋のブログ

日仏シャンソン協会活動記録及びシャンソン界のニュース等

テレビで偶然目にした舞台CMの中に「鈴木壮麻」の名前を見つけた。

 

 

4~5月に渡り開催される舞台「フランケン・シュタイン」。

私の地元である愛知では、5月5・6日に愛知県芸術劇場にて開催。

 

 

ミュージカル・スターだが、近年はテレビ・ドラマや舞台に数多く出演する役者(私の好きな「相棒」にも出演)として活躍。

先月は「エルム」のライブにも出演、今年も活躍を期待!

 

 

▼フランケン・シュタイン

https://horipro-stage.jp/stage/frankenstein2025/

 

日本のラテン・コーラス・グループが沢山存在します。

チカロス、ハポネス、ロス・プリモス・クール・ファイブ、アンジェリスなど。

 

 

その中でも私が一番好きなのは、菊池明・南瑛二・島清人による「トリオ・ロス・ペペス」。

1969年結成、キングレコードから「愛のふれあい」でデビュー、ヒット作となる。

 

 

エルムへの出演は、「マリキータ&ジロー」がきっかけ。

紹介した理由は、「エルムさん同様、とても真面目に歌を追求する」と言うものでした。

 

 

万博の折には、「YUKO&ロス・ペペス」を結成。

迎賓館で、橋本龍太郎元首相などを前にステージを行うなど活躍。

 

 

エルムにとっては、不可欠な出演者です。

オヤジ・ギャグも結構受けていますが、小中学生のコンサートの際にはスベッていました。

これもご愛敬。

 

 

”いまだにゼイゼイしながら歌っています”とお便りを下さいました。

 

日本人以上に義理堅い「ミッシェル・グラスコ」から

新年のあいさつが届いた。

 

 

幾度も来日し、永久シャンソン大使として日本各地にファンを持っている。

 

 

今年も、全国何ヵ所かで彼のアコーディオンの音が響き渡る。

「名古屋巴里祭」でも出演が決定しているので、再び会える事を楽しみにしている。

 

シャンソン・コンクールの歴史の中でも1年間に2つものグランプリを獲得と言う記録を打ち立てた「奥田晶子」さん。

 

 

彼女から、美味な贈り物をいただいた。

しかし私にとって何よりのプレンゼントは彼女のカムバックです。

 

 

絶頂期にはメディアでも度々取り上げられ、「永田文夫」先生や、毎日新聞の音楽担当記者からも高い評価を受けました。

 

 

長い闘病生活を経て、また「エルム」でカムバックをしたのは、歌に対する思い入れが激しく、強かったからでしょう。

 

 

今後ともヨロシク!

 

 

▼奥田晶子 エルム・ライブ

 

2025年2月21日(金)

open 19:00

start 19:30

charge \6,000

tel 052-733-0085

我らの活動拠点「エルム」から近く、催事でもご縁のあったホテルが「東急ホテル」

 

 

名古屋市の中心部にある他のホテルと比較すると比較的静か。

1階が吹抜けのコーヒー・ショップは待ち合わせに好都合。

 

 

館内のレストランは和洋中華の各店があり、どこも美味。

中華の店長は音楽好きで「エルム」へもよく来店。

年に何回かは支配人もご来店。

 

 

フランスで大ヒットした「ノートル・ダム・ド・パリ」の名古屋公演出演者・スタッフ一行の宿泊ホテルともなった。

 

 

彼らの公演のリハーサルを中断して、メンバー全員・作曲者「コッチャンテ」と、「エルム」歌手達と私で撮影した集合写真を今も懐かしくながめている。

 

 

▼名古屋東急ホテルHP

https://www.tokyuhotels.co.jp/nagoya-h/index.html

 

 

新幹線の新神戸駅に隣接したモダンなデザインの「新神戸オリエンタルホテル」。

 

 

ここは「日本アマチュア・シャンソン・コンクール」審査員の宿泊先となっていて、

「石井好子」氏と共に私も泊まった。

 

 

すぐ側にロープウェイもあり、館内の土産物店もはやっていた。

ホテル内の劇場では著名な歌手や劇団の公演も行われた。

 

 

広島等と共に駅直結のホテルとして知られたが、

他のJR関連ホテルとは異なり、民営と言う点が珍しかった。

 

 

「日本アマチュア・シャンソン・コンクール」、今は無く淋しい限りである。

金山駅の目と鼻の先にある「グランコート」は、

フロント前のコーヒー・コーナーがいつも満席。

 

 

かつて「シャルル・アズナヴール」一行が宿泊した時、

「エルム」で彼等の歓迎会を行う為、ロビーへ集合したが

周囲の人からサインを求められるメンバーが居た事を思い出す。

 

 

ホテル前の車寄せが狭く、往来する車や人にさえぎられて

なかなか中へ入れないので、慣れた人はタクシーを利用して乗りつけるのが常態となっていた。

 

 

資本の関係で一環した運営が出来ず残念。

新栄の「金谷ホテル」は時々、昼食を食べに出かけた所。

 

 

東急ホテルより、はるかに小さく気軽に利用できる。

こじんまりして楽な服装でも気にならない。

 

 

支配人から催事を依頼されたが、グランド・ピアノが無い為に断念した。

当時は珍しいペット同伴可能なホテルを目指したが保健所の許可が下りず断念したと言う。

新年早々、ショックなニュースが報じられた。

「恵那峡グランドホテル」が破産と中日新聞に掲載された。

 

 

岐阜県恵那市の景勝地として東農のシンボル的ホテル。

1971年創業以来、その姿は半世紀に渡って、当時のシンボルであった。

 

 

2024年には実質一人で働いていた社長の逝去により「大井ダム」の人造湖を残しただけで幕を閉じた。

 

 

私達にとっても「池田正行」氏(バーニング社長)を通じて、度々演奏の仕事を受注していただけに残念でならない。

 

 

▼恵那峡グランドホテルHP

https://www.enakyo.co.jp/

私にとって親友以上の存在が亡くなって、少し時間が経った。

 

 

「グラシェラ・スサーナ(本名:ムリオ・グラシェラ・スサーナ)」

昨年11月19日の朝、心停止によって逝去、71歳だった。

 

 

加藤ハツ館長を「私の日本のお母さん」と言って慕い、mss会館2階でのコンサート、1階でのライブも数多く行っていた。

 

 

 

愛知県芸術劇場で開催した「加藤修滋作詞・作曲・訳詞リサイタル’94~故モーリス・ファノンに捧ぐ~」には、「サンドラ・アロンソ」でのコンビでゲスト出演。

 

 

「サンドラ・アロンソ」は、15歳でブエノスアイレス・フォルクローレ・コンサート=コスキンで優勝し、天才少女と言われた存在。

 

 

ちなみにスサーナは、17歳で「アルゼンチン・ラファルタ州タンゴ・フェスティバル」で最優秀新人賞を受賞している。

 

 

このリサイタルで2人は、私の代表曲「ひととき」「ラスト・リサイタル」を素晴らしいハーモニーのスペイン語で歌ってくれた。

 

その後、スサーナは「ラスト・リサイタル」を日本語でも歌い、レコーディングしCD収録している。それが日亜両国で最後のCDとなった。

 

 

姉夫婦(クリスティーナ&ウーゴ)の2歳年下だが、自動車事故で夫婦とも亡くなった。姉夫婦の2人の子供はスサーナが引き取り、自身の子供2人、母親を養う為に1年の半分を日本へ出稼ぎに来ていた。

 

 

彼女の日本での人気は高く、「アドロ」「サバの女王」など発売したLPを積むと富士山より高いと言う伝説を残した。

 

 

また、日本びいきで、長男に「タロウ」、長女に「ハナコ」と命名するほど。

1972年の日本デビュー後、彼女は姉の形見のギターを盗まれ、大切な糖尿病治療薬まで盗まれている。

 

 

その後自宅が火事で焼失。その際のケガで眼がほとんど見えなくなり、ステージへ上がるにも手を引かれながら・・・となった。

 

 

来日の折、彼女の治療費を捻出する為に、エルム歌手が中心となって彼女の治療費を集め、日本の病院で手術、成功した時には涙を流して喜んでいた事を忘れられない。

 

 

日本での活動が多かった為、アルゼンチンでは目立った活躍が出来ず、夫君「アルベルト

・フォンタン」は若い女性と駆け落ち。理由は、日本人歌手のマネージャーに、レズビアンを教え込まれたとのもっぱらのウサワ。

 

 

そうした事を考えると、彼女の人生は決して幸せではなかった様に思う。

心優しい彼女は、エルム常連客であるカーコの求めに応じて、ツーショット写真を残している。

 

 

「グラシェラ・スサーナ」がヒット曲を出す前、ホテルナゴヤキャッスルの展望レストランで1ヶ月出演し、私は舞台真ん中の席でステージを楽しんだ後、屋外にある名古屋城の桜の木の下で、互いにカタコトの言葉で話し合った。

 

 

幸いな事に司会をした「内川女里子」は、スペイン語が出来るので難しい事は彼女が訳してくれた。

彼女は、私の友人で日本唯一のシャンソン・バンド「アンサンブル・ウーテルプ」リーダー山田幸司君がご主人、ご縁です。

 

 

一時代を築いた「グラシェラ・スサーナ」の人生に想いを馳せつつ、合掌。