情熱を注ぐ対象のある人はそれはそれでいい。ない人はないで仕方のない話。 | ASDの中年男性の人生の生き方。ときどき投資。

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シェアハウスで社会不適合者たちと暮らしています。発達障害(ASD)だから社会に適応できません。どうやら唯一トレードが好きだから、ひたすらトレードしてるかなぁ。

最近は大自然の中で農作業が主です。生きることは難しい。

世の中には特定の分野で卓越した結果を出している人で溢れていますね。

 

たとえば野球という分野では大谷翔平、格闘ゲームという分野では梅原大吾、料理という分野では三國清三、将棋という分野では藤井聡太・・・と色んな分野での成功者という人はいます。

 

もはや彼らは成功なんて目指しているのでははなく、その道の哲学を探求しているように映ります。いずれの人たちは人生の早い段階で自分の進む道を見出していたことも共通点です。

 

そして、特にその分野で成功者とはいかなくても、自分の本心から好きで主体的に何かに取り組んでいる人もいますよね。

 

一方で、自分の進む道を見出せずに人生を終える人もいます。または何となくの大多数の生き方に巻き込まれて生きる人たち(むしろこっちの方が多いのではないかと)。

 

私の場合は、この世のほとんどに興味がなく、ただ人生を過ごしています。ただASD(自閉スペクトラム症)という脳の特性のために一度首を突っ込んだことにはなまじ知識があるが故に『忘れない』ので他人からは興味があるのだと勘違いされてしまいます。

 

「人生で何か情熱を注げるものがほしい」と昔は切望していましたが、40代半ばにもなると「生まれ持って“ない”人は“ない”のだ」と割り切れました。別に何者になるのでもない、それが自分という存在。他人から強制的に圧力をかけられて持てるものでもないし、持ったフリをしてもどうせ長続きしないし。

 

「それはそれで良くね?だってしゃーないやんけ。それが俺の持ち前の気質なんだから。」

 

こういう人は90年代の価値観ならばマイナス寄りの烙印を押されたものですが、今の価値観ではそうでもないように思います。そもそも社会環境も違いすぎますもんね。『一億総中流社会』から『格差社会』へ。バブル期でウハウハしていたジジイやババアとは生きてる価値観も違い過ぎるもん。

 

何が「良い」か「悪い」かなんて時代によって違います。覚醒剤だって昔は『ヒロポン』という商品名で市販されていて、今でいう栄養ドリンク扱いでバンバン合法だったときもありました。昔のギャグ漫画で子どもがヒロポン利用してイっちゃってる描写とかもありました。後年になってヤベーってなって違法になったんですが。

 

こんな感じで時代や国家や法律次第で簡単に価値観を染めることができる(人を洗脳させることができる)のだから、個人の持ち前の好き嫌いなんてのは、周りの価値観により抑圧されて押さえつけられて生きるなんて馬鹿げたことにも思えます。

 

だから好きなことがある人は徹底的に『好き』をやればいいんだと思います。別にそれが金儲けや名声を得られるものでなくてもいいじゃないですか。

 

閑話休題。

 

ま、私みたいに何にも興味を持てない人は持てないで仕方ない(興味を持てるモノにまだ出会っていないかもですが)。そもそも興味を持てるモノに出会うためにも体力が要る。その体力さえもないので、出会えなくても別にいいんじゃないかな。

 

そもそも若い頃に、障害特性に気付かずに生きるのに過剰に頑張りすぎた。一言でいえば疲弊してしまった。

 

でもそれもまた人生なんだよなぁという感じなんじゃないでしょうか。