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 京都の地下には、琵琶湖に匹敵するほどの巨大な水甕があることを明らかにした書籍。2002年11月初版。

 

【深さ、僅か2m程の井戸】
 京都市下京区にある東寺の北側(現在の洛南高校建設時)で発掘された遺跡現場の様子から。
 「この井戸は約1.5mの深さまで掘られていますが、地層を見れば1mほどでも水が出たと推測できます。少なくとも江戸時代までは、このあたりの地下水位はきわめて高かったのです。・・・中略・・・。平安京の中であれば、おおよそ2mも掘れば、たいていのところで水が出たと思われます。(p.23)
 京都市内には、鞍馬山から南に向かって流れる鴨川と、保津峡から南東に向かって流れる桂川という2つの河川がある。これらの河川によって運ばれ堆積した砂礫が帯水層となり、豊富な地下水が、京都盆地の地下を満たしている。

 

 

【京都の命脈を支えたもの】
 京都といえば京友禅などの反物が有名。悉皆屋(染物・洗い張りを業とする人・店)の話によると、この地域の地下水は、『金気』とよばれる鉱物(特に鉄分)が少ないので、反物に余計な色が付かず、染料本来の色が出せるのだという。
 このすぐれた地下水があって初めて京都の伝統が生まれ、また守られてきたといっても過言ではないだろう。・・・中略・・・。この工場でくみ上げられる地下水は一日100~200トン。膨大な量だ。こうした染色関係の業者は、京都市内だけでも1000軒におよぶ。
 千年にわたり一国の首都であり続けた世界でも稀有の都市・京都。その命脈を支えたものこそ、京都の大地の地下に眠る無尽蔵の地下水だったのではないか。都市の大人口を支えただけではない。京の文化そのものが、この不思議な水の賜物だったのではないか。(p.31-32)
 京都の地下水は、染物だけではなく食にも大きくかかわっている。水をふんだんに含んだやわらかい「京豆腐」もこの豊富な地下水なくして生まれなかった。
 「京都の水は鉄分が少ない。しかし適度な硬度がある」 (p.40)
 これは、酒造りに最適な条件だという。伏見の酒も京都の地下水によって生まれた。
 こうした地下の良水は京都の北山と東山の麓に広く分布する。これは鴨川の流域に当たる。逆に西山、つまり桂川の流域の水は鉄分が多く、鴨川の水より若干劣るという。(p.41)

 

 

【地盤工学の解析結果】
 地下の構造によって生ずる僅かな重力差から、地下の構造を解析したところ。
 地下には、岩盤でできた巨大なお椀のような穴が口を広げていた。・・・中略・・・。
 「東西12km、南北33km。最も深い所で深さは800m近くに及びます。」
 この巨大な穴の中に水がたたえられている。まさに天然の地下の水甕である。最深部は、地上でいうと京都市南部の伏見区から久御山町あたりに位置していた。ここにはかつて巨椋池と呼ばれる大きな遊水地があった。昭和8年に干拓され、今はその面影をとどめないが、かつては600ヘクタールを超える巨大な池であった。(p.72)

 この巨大な水甕は、・・・中略・・・計算によると総量は211億トン。琵琶湖(270億トン)に匹敵する規模の量だ。(p.73)
 水甕(「京都水盆」)と言っても、京都盆地や奈良盆地は、古代において海進・海退が繰り返された地域なので、お椀のような岩盤の上には、砂礫層と粘土層が交互に堆積する地層が形成されていることが、ボーリング・データから分かっている。砂礫層は透水層、粘土層は濾過層としての役割を果たしているのだろう。京都水盆の貯水量は、間隙率を30%として算出している。
 奈良盆地の地質については、下記リンクのコメントに書いている。
    《参照》   『大和の海原』  樋口清之 千曲秀版社
              【大和の海原】

 

 

【いまだに現役:「京都水盆」の地下水】
 城陽市では上水の約80%を地下水に頼っている。・・・中略・・・。上水は半永久的に確保される見込みという。(p.55)
 城陽市は、京都市伏見区に南隣する市。京都駅からは15kmほど南にある市。
 観光客が多い京都北山や東山にそって流れる鴨川は、「京都水盆」の北東側に位置する。

 

 

【カモ大社】
「カモ」とは鴨川の「カモ」だ。・・・中略・・・。鴨川は左京区の出町より下流を「鴨川」、上流を「賀茂川」と書く。この書き分けは、鴨川の畔に建つ二つの神社にも共通する。上流の「上賀茂神社」(賀茂別雷神社)と下流の「下鴨神社」(賀茂御祖神社)である。・・・中略・・・。「カモ」の名の起こりに関しては諸説ある。有力なのは「カミ=神」が母音変化して「カモ」となったという説である。
いずれにしても「カモ」と神は、切っても切り離せない。上賀茂神社と下鴨神社は、元は一つの神社で「カモ大社」と呼ばれた。(p.92-93)
 奈良・平城京から、京都へ遷都する際、桓武天皇は、カモ大社へ使者を遣わして、遷都の決意を奉告させているという。
 カモ大社は、もともとカモ氏と呼ばれる一族の氏神を祀る社だった。(p.93)
 八咫烏の子孫がカモ氏だという伝説 (p.94)
 葵祭はもともと「カモ祭」と呼ばれていた。(p.95)

 天皇は自らの娘をカモ大社に住まわせ、カモの神の祭祀にあたらせていた。いわゆる賀茂の斎王だ。このような神社は皇祖神を祀る伊勢神宮以外には例がない。(p.96)
「鴨葱」という俗語の本来は「鴨禰宜」。日本中の神社の禰宜(神職)は、鴨氏から選出されていたことが由来。
    《参照》   『隠れたる日本霊性史』  菅田正昭  たちばな出版
              【阿弥号を持つ人たち】

 

 

【カモ大社の祭神】
 カモ川流域を聖地とするカモ大社が祀るカモの神は、実は水の神だったのです。(p.96)
 下鴨神社の御祭神は『玉依日売(たまよりひめ)』という女性の神です。・・・中略・・・玉依日売は身ごもって男子を生んだ。その男子が上賀茂神社の御祭神である『賀茂別雷神(わけいかづち)』です。賀茂別雷神はその名の通り雷の神、雷雨をもたらす神です。このようにカモの神は川や雷、雨と切っても切れない縁がある。つまり水を司る神なのです。(p.97)
 鴨川の上流にある貴船神社も、水神を祭っている。
 鴨川と高野川の合流地点にある下鴨神社の境内にある「糺の森」の「糺」は、元は「直澄」、澄み切ったきれいな水が湧く所という意味。糺の森にある「みたらしの池」にポコポコ吹き出す丸い水泡の形をまねて作ったのが「みたらしだんご」。つまり下鴨の団子が「みたらし団子」の元祖。
 「カモ氏は、代々宮中のモヒトリノツカサに仕えるモヒトリベだったんです」
 モヒトリノツカサは「主水司」、モヒトリベは「水部」と書く。(p.111)
 天皇とカモ氏をつなぐもの、それはやはり「水」であった。 (p.112)
 下鴨神社の社家の子孫が集う親睦会の会長さんのお名前は「鴨脚」さんという。
 景行天皇はカモ(鴨)の一族の庭に繁る銀杏の葉を鴨の脚に見たて、一族の繁栄を言祝いだ。この伝承を誇り、「鴨脚(いちょう)」と名乗るようになったという。(p.114)
   《参照》  『誰も語りたがらないタブーの真実2』 中丸薫・三神たける (青志社)
            【「丁髷」と「大銀杏」】

 

 

【連動する水位】
 鴨脚家の庭には、不思議な水の施設がある。・・・中略・・・。
「これは溜まり水じゃなくて。湧き水なんです。地下水が湧いておるんです。・・・中略・・・。昔から、ここの水位は鴨川の水位と同じであると聞いております。・・・中略・・・。この泉には面白い言い伝えがあります。泉の水が御所に繋がっているというんです」
 鴨川、そして御所の水位と連動する泉の水。・・・中略・・・。これこそカモ氏と水、そして天皇を結びつける最大の証ではないか。(p.121)
 まだある。
 神泉苑は、平安京の主たる天皇の治水政策の要であった。そして繰り返すがこの神泉苑と、天皇の住まいである御所と、天皇が敬った都の水の聖地下鴨神社は一直線上に並んでいるのである。この3つは水でつながっているのではないか。三か所を結ぶ直線の地下に「見えざる地下の水道」があるのではないか。そうだとすれば、下鴨の鴨脚家の泉と御所の井戸がつながっているという伝承も理解できる。(p.138)
 神泉苑は二条城の南に隣接してある泉。シャーマン的資質を当たり前に持っていた古代の人々が「神泉苑」と名付けていたのだから、無関係なわけはない。

 

 

【地下水の危機】
 京都の地下水の危機が世間で騒がれ始めたのは、昭和40年代のことである。きっかけは中心部における地下鉄の建設だった。(p.167)
 他に、鴨川の治水のために、河床を深く掘り下げる工事も影響していた。
 これらによって、地下水を取水できなくなり、廃業したお豆腐屋さんなどがたくさんあったらしい。しかし、中には、砂礫層と粘土層が交互に堆積する地下をさらに深く掘ることで、下層の砂礫層(帯水層)から地下水を取水し、営業を続けることができた例もあったという。

 

 

【鴨川の洪水と治水】
 白河法皇が「賀茂の河の水、双六の賽、山法師、これぞわが心にかなわぬもの(賀茂川の洪水と、双六のサイコロと、比叡山延暦寺の僧兵は自分の想いのままにならない)」(『平家物語』巻第一)と述べたという、いわゆる「天下三不如意」のエピソードは有名である。(p.191)
 今でも、三条大橋や四条大橋の上で見ると、だいぶ凄まじい鴨川の様子を見ることができるらしい。
 渡月橋から撮った、大堰川(=桂川)の満水状態は、たまたま写真にある。

 

 

【井戸霊】
 市営地下鉄烏丸線の建設工事にともなう発掘調査で、・・・中略・・・、見つかった平安時代後期の井戸は、中央に竹筒を直立させていた状態を遺しているのである。これは、使われなくなった古い井戸を埋めるに際して、井戸に宿っている神霊を安んじるために祭儀がおこなわれたことを示している。・・・中略・・・。古井戸は必ずや祟りをなすと信じられていたのである。(p.206-207)
 現代人の多くが、井戸霊を顧みなくなっただけで、今でも、こういった霊的な作用は実在している。

 

 

<了>