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 最後の頁の「簡単なあとがき」に書かれていることによると、この本は当初、「若者に『働け!』とカツを入れる本」として編集者から要望されたとか。笑ってしまった。自らも16年に及ぶ学生生活を送っていたという哲学専門の著者にそんな要望をしたって無理に決まってる。むしろ読者は、著者自身の体験をもとに語られている働いていなかった期間のことを興味深く読むことだろう。

 

 

【ひきこもり礼賛】
 近年、不登校やその延長形態としての社会的ひきこもりが急増しているが、今やどうにか社会の一角に食い込んでいる私も、かつては不登校の学生であり社会的ひきこもり青年であった。同類が増えてたいそう心強く、私の本心なのだが、もっともっと引きこもりが増大してほしいと思う。なぜなら、彼らのうちで少なくとも真剣に考えている者は、人生における本質的なものを見ているように思えるからだ。そういう青年は、生きることの虚しさを感じているにちがいない。どうせどんなに真剣に生きていても、数十年後には死んでしまうんだ。どんなに努力しても、能力の差はあるんだ。どんなにがんばっても、人生とは偶然が左右するのだ。 (p.13-14)
 「努力しろ」とか「働け」とかっていまだに念仏みたいに言っている大人って、現在の社会状況を全然認識していないんだから、引きこもりは馬の耳になるしかないだろう。
 世の中の鈍感で善良な、つまりウソで固めた欺瞞的人生を送っている奴らは「そんなこと考えてもしかたないや」とか「とにかく努力してみろよ。いつか報われるときがあるから」とか「おまえ、負け犬でいいのか」とか「人生どうなるかわかったもんじゃない。塞翁が馬だよ」トカトカの何も真剣に考えていない、世間で垢まみれになった小汚い言葉を投げつける。おまけに善良な市民特有の「優しい」軽蔑的視線を投げつける。
 こうした手にかかって、多くのものは自分がヘンだと思い込む。(p.14)
   《参照》   『努力しているヒマはない!』 宋文洲 (学研) 《後編》
            【文明を発展させてきたのは何のためだったのか?】

 

 

【人生とは「理不尽」のひとことに尽きる】
 本屋には、仕事に関する本が山のように積まれている。その大半は、第一に、叱咤激励してストレートに成功へと導く本、そして第二に、成功をめざしてアクセク働くことはない、ゆったりした自分らしい人生を歩もうという本。この二つに大きく色分けさているように思う。
 だが、私が言いたいのは、このいずれでもない。もっと身も蓋もない真実である。すなわち、人生とは「理不尽」のひとことに尽きること。(p.35)
 いかにも哲学者という感じの語りだけれど、大抵の引きこもりは、人生が「理不尽」なのはよく分かっているだろうし、心底馬鹿馬鹿しいとも思っているのだろうけれど、心の中心部はそんな対社会的な命題ではなく、個人的な自己防衛心理が核を成していんじゃないだろうか。つまり 「もう傷つきたくない」 と思っているんだろう。
 馬鹿馬鹿しい人生に耐え傷つきながらも働き続けている人たちは、人生なんて馬鹿馬鹿しいに決まってると割り切って傷ついたら絆創膏を貼ればいいと思いを定めているんだろうけれど、引きこもりたちは、そこまでして働くことに納得する気になれない。それを上回るだけの価値を見いだせないから、もう本当にイヤなのである。
 でも、哲学者である著者は、人生の「理不尽」を受け入れつつ、なんとか考え続ける哲学的生き方の中に、解法を見いだそうとしている。

 

 

【不平等が隠されている社会的不正義状況】
 社会的不正義は、私にとって永遠の難問だ。ここには、さまざまな変形した不平等が隠されている。
 ・・・(中略)・・・ 
 だから、何度も確認しておくが、どう動いてもわれわれは無条件に道徳的に正しい行為は出来ないのだ。それを志すことはできる。しかし、実現はできないのである。(p.90-91)
 これって真摯な哲学的考察なんだろうけれど、こういう考察って虚しい。
 この地上から社会的不正義状況を一掃できないことの根本は、「競争社会」を前提としているからであり、この限りにおいて不正義は横行し道徳は決して生きてこないのである。
 畢竟するに不正義、不平等、不条理、理不尽に行き着くのが見え透いている哲学的思考体系って、その体系の外に出ないと視界は開けっこないと思っているから、「哲学って知的体力のある人の自虐的道楽だろう」と知力のないチャンちゃんは学生時代に容易に結論を出してしまっていた。チャンちゃんみたいに貧知な奴が少しばかり哲学的に苦吟してみたって最後にはどうせ、いや最初からとっとと、ムルソーみたいに、「太陽のせいだ」って言い出すのである。
 だからと言って、哲学的体系から宗教的体系に乗り換えることで、不条理や理不尽を包摂する解釈法を会得し、「太陽のせい」ではなく「因縁のせいだ」と言い換えたところで、この世の不条理や理不尽が消滅し秩序立った世界が出現するのでもない。それどころか不昧因果の厳然性を知れば、不条理や理不尽に晒される覚悟をするのと何ら変わりがないと気づくだけである。
 だから、大人になった今は、人生を問う哲学的思考が「虚しい自虐的道楽である」とまでは思わない。ただ、生まれ変わりの主体となる魂を認知しない哲学の誤謬は、“大いなる罪” であると思っているだけである。

 

 

【虚無を背にして立つ哲学】
 人間は死ぬとずっと死につづけるのだ。一億年経ってもその一億年倍経っても生き返ることはないのである。やがて、人類の記憶はこの宇宙から跡形もなく消えてしまうのである。(p.168)
 先に書いたように、これは哲学の誤謬であり “大いなる罪” なんだけど、自分自身、輪廻する魂を前提とする宗教的な思想に馴染んでいながら虚無的であり続けていたのは何故なのか、と考え込んでしまった。
 死んだら永遠に無であると思い込んでいる人は、死を恐れるって言うけれど、死んだら無という考え方のほうがサッパリしていてイイじゃんと思ってしまうチャンちゃんみたいな奴は、うんざりしながら現実を虚ろに空しく生きているのである。

 

 

【生きる最大の理由にすべきこと】
「よく生きる」とは、「どうせ」死んでしまうことの意味を問いつつ生きることさ。その虚しさや不条理から目を逸らすことなく、「それは何なのか」と問いつづけながら生きることさ。私たちは生まれたときから、「どうせ」不条理にたたき込まれたのだ。その意味を問うことを、生きる最大の理由にすることだよ。(p.175)
 人生にうんざりしてながら現実を虚ろに空しく生きてないで、「不条理を問い続けろ」って言ってる。
 やだ。
 チャンちゃんはそんな生き方絶対にイヤ(イヤというよりそもそも無理)だけど、場合によっては不条理を問い続け答えを探そうとすることの中に救いがあることも事実である。

 

 

【問うてはならないとされている問いを問うことができる場】
 下記文中にある「無用塾」とは、著者が主催している塾のこと。
 表面的に健康な世間において問うてはならないとされている問いを抑えつづけることはその人を病的にし、逆にそれをトコトン正確に言語化することはその人を健康にするんだよ。
 無用塾では、例えばの話だが、誰かが「人を殺したい」と言ったとしても、「自殺したい」と言ったとしても、頭から拒否することはない。どこまでも大真面目に対処する。みんなその人に向けて「なぜ」と問いつづけ、その人も「なぜなら」と答える努力をしつづけ、そうした言語的運動をえんえんと続けるんだ。そうすると、なぜか付きものが落ちたようにホッとラクになることがある。(p.186)
 考え尽くすことを前提とする哲学という場だからこそ、狂激な問いであっても、問いかつ考えることでガス抜きができるんだろう。ドストエフスキーが、小説の中で登場人物に殺人を犯させることで、自分は殺人者にならずに済んだというのと、多分同じである。

 

 

【哲学を乗り越える】
 哲学に執着することは、真の意味では哲学的ではないのだ。哲学を振り捨てること、哲学を乗り越えること、それが哲学的なのだ。(p.195)
 哲学的に生きるということの中に、世間一般の幸せを望むということは入っていっていないんだろうから、日頃から孤独に馴染んだ坦々たる生き方を実践し、老後はひっそりと、あたかも存在していかのないように生き、最後は誰にも知られずに静かに死んでゆくことが普通にできそうに思える。
 死んだら無になることを信じつつも、生きている間は知を愛し、最後にはその愛着すら離れられているのなら、その人の哲学的な人生は成功したといえるだろう。
 宗教を学んでいたって、執着心タップリ残したまま死んで幽界をウロウロしているような人々に比べたら、執着を離れられた哲学者は大成功だろう。それどころか、もしも死んでから無ではなかったことに気づけた場合、棚ボタ的な歓喜に酔うのかもしれない。「まだ哲学することができる!」と気づくのだから。

 

   《参照》   『死後体験Ⅱ』 坂本政道 (ハート出版)
                【死後世界】

 

 

  中島義道・著の読書記録

     『働くことがイヤな人のための本』

     『英語コンプレックス脱出』

 
<了>