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 ジャンルとすれば「語学」ではなく、「比較文化論」ないし「生き方論」に分類される方が相応しい書籍である。著者は1946年生まれとあるから、現在62歳。日本が国際的にまだまだ途上段階にあった時代に海外留学しておられた方(ウイーン大学・哲学博士)なので、国内外で欧米圏に対する日本人のコンプレックスを実感してこられたらしい。それらを「英語コンプレックス」というタイトルに集約させている。
 この本、私の古書買い置き棚の中に、かなり前からあったのだけど、数日前に読んだ 『男子、一生の問題』 西尾幹二著の中で、「哲学者・中島義道氏のスケールの大きさと危うさ」 という章があった。それでこの本が目に入ったものらしい。


【「肌色」という日本語の単語】
 人種差別問題が喧伝されているアメリカに在住して3年半の主婦からの投書(1990/11/30)が朝日新聞に掲載された。クレヨンの中に「肌色」という色を見つけ、「これはおかしいと思いました」という内容の投書である。この全文が掲げられた後、著者はこのように記述している。
 この主婦はアメリカで「肌色」という言葉を使わないように提言しているのではなく、日本語自体から「肌色」という言葉を放逐すべきだ、と提言している。こうした言葉を使用しているわれわれは「気遣いが足りない」といっているのである。私はこの投書を読んで釈然としない気持ちが残った。(後に詳述するが)在米体験の長い日本人がはまる陥穽、すなわちアメリカの基準をすべての人類の基準と単純にみなしてしまう「アメリカ信仰」の典型を見たような気がした。この論法でいくと、われわれは日本語を「アメリカへの気遣いから」かなり変えなければならない。 (p.34-35)
 多くの人々に共通しているのは、『わが国・日本』 という誇りの欠如なのであろう。この国の文化が凝縮している日本語の単語を、他国への気遣いのために放逐するなど、論外中の論外である。
 これこそ、日本人としての文化の核心を明確に認識せぬ者たちが陥る “コンプレックス” そのものであろう。
 この書籍の第1章には、日本人の持っているコンプレックスを内在させた実例が数多掲載されている。
   《参照》   『アメリカに頼らなくても大丈夫な日本へ』  日下公人  PHP
              【「わが国」】
   《参照》   『神道〈徳〉に目覚める』 葉室賴昭 (春秋社) 《後編》
              【出羽の守】

 

 

【イギリスがインドに文明をもたらしたのです!】
 英語コンプレックスの背景を探っているわれわれに無視できないことは、英語はイギリスによるアジア支配の道具であった、という事実である。・・・(中略)・・・。賢明な読者にここで考えてもらいたいことは、平均的日本人はアジア侵略に対して何ほどかの良心の呵責を感ずるのに対して、平均的イギリス人はそれに対してほとんど自責の感情をもっていないということである。 (p.66)
 地球温暖化に絡んでイギリスのとある企業は、エネルギー産品として、アフリカで油脂を多量に含む作物を農民との間で契約栽培している。その契約書には10年という期間が記され、履行されない場合は土地の没収に近い内容である。英語で書かれた契約書などアフリカの農民に読めるわけはない。企業は農民に対して収穫物を買い取る以外に何の保証もしていない。栽培開始から3年間は稔らないその植物は、灌水しなければ育たない。多くの農民がすでにその作物栽培を諦めている。こうしてアフリカの農民の多くは英国企業に土地を奪われることになるのだろう。イギリス人の冷酷さは、帝国主義時代の昔も、そして今も何ら変わっていない。
 ビートルズを生んだ、かつての繁栄の土地・リバプールも、アフリカの奴隷を中米に運び、そこで農産物に換えて本国に持ち帰るという三角貿易が、富の源泉であったという。永遠に懲りない面々である。

 

 

【都市景観から住民の自由度を比較する】
 ヨーロッパの都市は個人の自由を最も認めなかった場所である。そこでは、決定は全て全員一致であった。というのは、反対者は牢獄へ入れて、賛成するまで出してもらえなかったから。人々は他人に対しておせっかいで、自分の思うとおりに他人を変えようと待ち構えている。これほどまでに個人に干渉するからこそ、ヨーロッパの都市は、あれほど統一的な美観が保たれてきたのである。これに反して、個人の自由をいたるところで認めているからこそ、わが国の都市はこれほどまでに猥雑で醜悪なのである。このことをよく考えてみる必要があろう。(p.113)
 上記に続いて、大学時代に読んだ懐かしい書名が記されている。
 西尾幹二・著 『ヨーロッパ像の転換』 『ヨーロッパの個人主義』 (いずれも1969年刊)は、凋落傾向を示しながらも「ヨーロッパ中心主義」を捨てきれないヨーロッパ人と、経済大国としてのし上がってきながらも依然として「ヨーロッパ幻想」を抱き続ける日本人に対する批判の書であり、(会田雄次・著) 『アーロン収容所』 の直系と言っていい。 (p.114)

 

 

【英語コンプレックス状況の変化】
 汗水たらし不正の限りを尽くして商品を売りつけ、エコノミックアニマルと嘲笑されながらも富を築いてきた人々は、まさにこうした行為によって下品であったが、その子供たちは、親が営々と築いてきた富と力をはじめからみずからの遺産として利用でき、親と同じ修羅場をくぐる必要がないゆえに上品なのだ。 (p.145)
 著者のような親の世代は、コンプレックスをバネにして日本をここまで経済的に成長させてくれた。しかし、その子供たちの世代は、親の世代のその思いを、コンプレックスと共にあまり受け継いではいない。

 

 

【日本はアニメの世界のみで女性上位???】
 著者が教えている大学には様々な国々から留学生が来ている。
 台湾から来た女学生は日本のアニメに凝っているが 「アニメと女性差別」 と題するそのレポートは意表をつくものであった。 『もののけ姫』 のように、日本のアニメの主人公には女性が多い。それも男勝りの力強いキャラクターが多い。この現象は現実世界においては女性はまだ虐げられていることを間接的に示している。日本社会はまだアニメの世界のみ女性上位が認められるのである。おおよそそのような内容であった。 (p.205)
 この記述を、この書籍のタイトルに絡めて理解するなら、欧米圏の女性上位が世界の標準であろうがなかろうが、日本がそれに盲従すべきであると考えるのは欧米コンプレックスそのものである。台湾は既に欧米基準に飲み込まれてしまっていて、自国の歴史的文化的思考基準が死んでしまっているのである。

 

 

 しかし、この様なコンプレックスの問題とは別に、この台湾人女学生の発言は、日本文化に関する根本的な無理解を示している。結論から言うと、この見解はデラタメである。
 もとより、宮崎監督の作品には、初期の 『風の谷のナウシカ』 を初めとして少女を主人公にした作品が殆どであろう。宮崎アニメの主人公は、台湾からの女学生が言うような “女性” ではなく “少女” なのである。
 日本では、少年であれ少女であれ童(わらべ)は、いまだ社会的な諸々の観念に染まらぬ無垢な存在として、かつ又その素直さを重要な因子として、神の世界に通ずる者として尊ばれる風習がある。これは何も日本に限ったことではない。中国においても、古代の天子は、政変や天変地異など、未来を予測するために、各地に伝わる童謡を収集したものを 『天籟集』 としてわざわざ編纂しているのである。
 宮崎アニメは、現代日本の 『天籟集』 としての役割を荷っている。(『風の谷のナウシカ』 は、無差別テロを敢行したオーム真理教の暴走を予知していたではないか。 『もののけ姫』 が描いている世界も、これから先、人類が選択するかもしれない未来の一つである) だからこそ、主人公は少女なのである。
 日本の言霊では、姫 = ひめ = 秘め である。天意を “秘め” ているからこそ主人公は “少女” なのである。女性上位とは何の関係もない。
 著者は、台湾人女学生の 「アニメと女性差別」 というレポートの見解を、「意表をつくものであった」 などと書いているけれど、単なる的外れ以外の何ものでもない。