(前編) より

 

 

【国際的ではない都市:ニューヨーク】
 英語をしゃべることを当然だと思い、しかも外国人に対して一切の配慮をせず(できず)、ドルしか通貨の単位はないようなそぶりで、そのうえニューヨークのことは人類の全てが知っているはずだという傲慢な態度に出会って、あらためて「国際的」ではない街に来てしまったと思った。 (p.193)
 国際カント協会で発表するために初めてアメリカに行った著者であるけれど、この時のこまごまとした体験と感想が正直に書かれているので、失笑しながら瞬く間に読み通してしまった。鋭敏な哲学博士で、かつ語学に何の不自由もないであろう方なのに、出発間際からの逡巡からして、最後まで気取った記述は決してなく、読んでいて引き込まれてしまう楽しさがある。そして、以下のように記述されている

 

 

【自爆テロ】
 こうして、自分の無能力をこまごまと語り続けるのも悪趣味だが、-------- 聡明な読者はわかっていると思うが ----- 本書執筆の主要動機はまさにここにある。世の中の人々(とくにインテリども)が、いかに自分の語学力の「実情」を語らずに、ごまかしている、そのことをあえて自分を出しにして暴きたいのだ。そのことによって、英語コンプレックスを営々と築いてきたわが国の文化に風穴を開けたいのだ。一種の自爆テロである。 (p.216)

 

 

【英語コンプレックスを解く鍵、それは “誠実” 】
 先に紹介したアジア・アフリカからの留学生の中にも、すさまじい 「英語」 を使う者がいる。中国から来たM君も、前に出て分厚いレポート用紙に細かく書いた文字を読み始めたが、ほとんど何をしゃべっているかわからない。それでも彼は一生懸命なのだ。くすくす笑いがあたりに広がる。下を向いてしまうものもいる。だが、彼は真顔で話し続けている。そして、終えると、私のほうを見てにこっと笑う。私は、身が張り裂けそうになる。「ずいぶん準備に時間がかかったのでしょう?」 「ええ、まる二日かかりました」。 ああ、これこそ一番大切なものだなあ、とからだがじんわり熱くなる。
 英語のできない人、下手な人が、それでも一生懸命にしゃべろうとしているとき、私は軽蔑できない。嘲笑できない。彼らが誠実でありさえすれば、英語の知識や発音、コミュニケーション能力、コンプレックスの効用など、これまで述べてきたことのすべてはどうでもよくなる。世界は単純な相貌を見せ、ただ「彼(女)に同じように誠実に対さねばならない」 という使命感が全身を貫く。
 こうして、気がついたら私の英語コンプレックスは、いつの間にかいわば「自然治癒」していたのである。 (p.227)
 これが、この書籍のクロージング・センテンスである。
 今は亡きソニーの盛田さんが、アメリカのテレビ番組でインタビューされていたのを見たことがある。流暢な英語など決して話してはいなかったけれど、常に堂々と話していた。質問に対しては、対立する二つの単語を用いて語っていたに過ぎないような回答であったけれど、それ故にこそ多くの聴衆に極めて明確に盛田さんの意向が伝えられたのであろう。
 なまじスラスラと話したばかりに、マシンガンのような英語で返されて閉口した経験のある日本人旅行者は多いはずである。中途半端な流暢よりは、断然、朴訥であれ誠実が勝っている。
 日本人であることを胸に、間違っていようがどうであろうが堂々と英語を話し、理解できないなら理解できないそっちがアホや!と思いながら話せばいいのである。(ちと、言い過ぎかも・・・でも大筋はこれでいいのである)

 

 

<了>

 

  中島義道・著の読書記録

     『働くことがイヤな人のための本』

     『英語コンプレックス脱出』