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 『「無邪気な脳」で仕事をする』 を読んで、書架からこの本を探し出して再読してみた。

 ことばに関する重要なことがらを語っているのだけれど、著者特有なセンスによって風変わりな著作になっている。フムフムと真面目に読んだり、へぇ~だったり、爆笑したりで忙しかった。
 男性脳と女性脳の違いから具体的行動の違いをコンパクトに説明していたり、和歌を題材にしていたりもするので、老若男女を問わず誰が読んでも有益な著作だろう。2003年2月初版。8年ぶりの再読。

 

 

【音相】
 音相とは、ことばの音の表情である。そう述べると、音響心理学を思い浮かべる方も多いと思うが、音相は、最近流行の癒しの音のように 「今聞いた音の、今の心理効果」 を音響学的に云々するものではない。
 音相が明らかにするのは、ことばの音が持っている普通の表情であって、その音並びを口にするとき、あるいは文章に書くとき、送り手はどのような思いを込め、受け手はどう感じているのか、そのどちらの潜在脳にも入り込んで、長く心に残る、共通意識としてのことばの表情である。(p.26-27)
 音相研究所の木通隆行先生の分析によれば、という前置きで、音相の分析例が度々言及されている。
 音の組合せによってどう感じられるかを、数十項目からなる指標で分析しているらしい。

 

 

【ビジネスの現場で】
 ロングラン商品に悪い音相の商品名は見つけることはできない。商品名や企業名が重要なのは、既に周知の事実だが、音相が、その評価の絶対的なスケールになり得ることは、まだほとんど知られていない。(p.27)
 音相による解析結果は、ビジネスの世界で、企業名や商品名の決定に用いられてゆくことだろう。

 

 

【タノシイとウレシイ】

 音相研究所の木通隆行先生の分析によれば、タノシイとウレシイには、占有する 「思いの時間」 に歴然と違いがあるという。
 タノシイは、きっぱりしていることばだ。スピード感があって明白。インパクトは強いが、瞬間的な効果しかない。したがって今だけのはじけるような喜びの事象を表現するのに使われるのである。 ・・・(中略)・・・ 。
 これに対しウレシイには、時間の流れが含まれている。過去の思いの積み重ねに照らして、未来に降り積もるであろう思いをしみじみと感じ、私たちはウレシイと発音する。恋人とのやっとの逢瀬はほんとうに 「嬉しい」。
 木通先生のこの分析に出逢ったとき、私は心底 「嬉し」 かった。長く私が希求してきた、意味論では答えの出せないことばの情緒性の問題が解けて、たくさんの可能性が見えてきたからだった。(p.47)
 普通の方にとったら 「嬉しいと楽しいの違い? それがどうした。あたりまえじゃん」 かもしれないけれど、研究者の立場で考えていた人にとっては、人間が言葉から感じる情緒性の違いを、音相として分析することで語りうるということは凄いことなのである。

 

 

【やまとことば】
この著作の中では、「言葉」 という漢字は用いられていないけれど、以下の主旨に則している。

 訓読みの語は、基本的に日本古来のやまとことばに由来する。すなわち、日本に漢字が到来し、私たちの祖先が文字を手に入れる前、ことばの音だけで情報交換をしていた時代のものである。したがって、意味よりも、音優先で作られており、現代の多くの言葉の中でも、特に音相が顕著に匂い立ってくるのが、このやまとことばなのである。(p.26)

 これは日本語に関する非常に重要な指摘である。
  有明の つれなく見えし 別れより 
          暁ばかり 憂きものはなし
 という歌がある。 『古今集』 に収められ、百人一首にも選ばれた壬生忠岑(ミブノタダミネ)の秀歌だ。
  ・・・(中略)・・・ 。
 意味論で解析すれば、とりわけ高い思想や情緒性を持つわけではないこの歌を、二人の歌聖はなぜ絶賛したのだろう。
 この千年の謎解きに挑戦した音相理論の創始者・木通隆行先生は、この歌には美しい音楽性があるという。(p.36)
 ここに書き出した個所は、日本文化講座⑩ 【 日本語の特性 】 <前編> の中に引用されている。
 古典として知られている有名な俳句や短歌を例として、音相の分析結果をもとに説明している記述が他に3つほど記述されている。興味がある人は読んでみるといい。

 

 

【少年と少女】
 私は、はちみつ色の頬の少年たちが、空想で頭がはちきれそうになっているのを見ると胸がいっぱいになる。なぜなら、少年たちの好奇心は、自我以外のものに放射されているからだ。思春期に入る直前の少年たちの無垢は、比類がなく透明だ。
 対して、少女たちの関心は自分に集中している。少年たちが宇宙に旅立つ夢を見る頃、少女たちは自分を迎えに来る王子様を夢見ている。少年たちが地球の未来を案じているとき、少女たちは自分の将来に怯える。
 少年と少女は驚くほど違う。この違いは脳の形状の違いに起因する。男性の脳梁は、女性のそれに較べて細い。脳梁が細いということは、右脳と左脳の連携が悪い脳ということになる。左右の違いが顕著なので視野に奥行きが生じ、確かな遠近感が生まれる。(p.83)
    《参照》   『記憶がウソをつく!』 養老孟司・古館伊知郎 (扶桑社) 《前編》

                【男と女の社会的な性差】

                【男と女の脳の性差】

 少女の好奇心は、自分に向かう急進的な力だ。だから、それが負に働くときも自分に向かうことになる。すなわち自分を憎む。拒食や過食は、多くは少女に起こる事件だ。
 対して少年の好奇心は、外へ向かう。一躍、死や宇宙のはてのような現世界の際に好奇心が集中する。そして、それが負に働くとき、少年は社会を憎むことになる。
 すなわち、少女の情緒の源は主観にあり、少年の情緒の源は客観にあることになる。私は情緒を工学として扱う研究者として、このことに注目せざるを得ない。(p.85)
 情緒の源を異にする少年と少女は、それぞれ主観と客観を逆にすることができたとき、初めておとなへとステップアップできるという。
 少年は 「あなたはどう思う?」 という質問に答えられるようになって、初めておとなになる。少女は、「私はこう思う」 を呑み込めるようになって、初めておとなになるのである。(p.85)

 

 

【奥様は魔女】
 一般のコンサルタントと違う思考の軌跡を描く私は、ときに魔女のようだと言われるけれど(ある人は誉めことばで、ある人は揶揄で)、私の操る 「ことばの魔法」 は科学である。きちんとした再現性のある分析手法なのだ。(p.118)
 私の大好きなひとは、私の情緒文脈スイッチングを 「魔法」 と呼ぶ。私が、うっかり好奇心を抑えきれなくてこれをやると 「やたらと魔法を使ってはいけないよ」 と真剣に心配してくれるのだ。(p.150)
 著者のプロフィールには1959年生まれとあるから、執筆時だいたい40歳くらいの奥様である。私もこの本を読みながら、心の中で “魔女だよね~、魔女、間違いない” って何度も笑いながら思っていた。コンサルタントとして音相の分析手法を用いているにしても、強力な助っ人として利用しているのだろう。
 そもそもからして、著者に名前がつけられたとき既に魔女と定められていたらしい。武道などでは相手の呼吸を読んで息を吐き切った時を攻めるポイントとしているけれど、息を吐き出してしまう “いほこ” という音は連呼しづらい音列であり、呼び手の心を解いてしまうという事実に、子供の頃から気づいていたという。
 「解く名前を持つ者の、神聖な責務として」(p.115) 音相に関与する仕事をしているということである。

 

 

【思考体系】

 11歳を過ぎると、ここまでに確立した脳の基本構造に依存して思考するようになる。日本語で丁寧に育てられた子どもは、日本語の構造に依存した思考をする。英語で育てられた子どもは、英語のそれである。
 では、日本語と英語の両方で育てられた子どもは、 ・・・(中略)・・・ 二つの言語を融合した思考体系を持つ。周囲がその子にうまく融合した思考体系を与えられればいいが、失敗すると、どちらの言語圏においても、不完全と見られる思考体系を作り上げてしまうことになりかねないのである。帰国子女の通訳や翻訳家が意外に少ないのは、生活観に根ざした母国語の情報量が足りないからだといわれる所以だ。(p.144)
 言語=思考体系だから、二つの言語で育てると、脳はまさにイソップ童話のコウモリになってしまう。
   《参照》   『運のつき』  養老孟司  マガジンハウス

              【 『唯脳論』 はお経である】
              【そもそも日本語が「諸行無常」】

 

 

【怠惰と見くびりと愛情】

 怠惰と見くびりと愛情が、同義。この命題が真だってこと、たいていの女は繁殖期が終わるまでは気づかないと思う。けど、気づくべきだ。目の前の怠惰な男に別れを告げて、次の王子様を探しても、果ては同じことなのだから。男の愛情双六の上がりはここ。そもそも、私たち女とは、違うゴールを目指しているのである。(p.157)
 “怠惰と見くびりと愛情が、同義”って、すごい命題で、一瞬頭が空回りしてしまう。でも、まあ、そんなもんかもしれない。
 著者は、若い女性向けの著作もいくつか書いているけれど、多分、こんなことが一杯書いてあったりして、いろんな有益な示唆が得られるのだろう。

 

<了>

 

  黒川伊保子・著の読書記録

     『しあわせ脳 練習帳』

     『感じることば』

     『「無邪気な脳」で仕事をする』