《前編》 より

 

 

【蒋緯国の「爆弾」発言】
 日本ではあまり報道されていないが、・・・(中略)・・・ 蒋緯国は 「父である蒋介石と兄蒋経国の二つの墓を、蒋介石の生地である浙江省に移設して永遠に遺骨を納めたい」 と言い出した。(p.210)
 蒋緯国とすれば、 「落葉帰根」 という中国人のメンタリティーに即した発言なのであろうし、本省人の台湾人にすれば、「台北の(蒋介石を祀っている)中正紀念堂の棺だって、台湾の大地に接しないように置かれているんだから、そうすれば・・・」 くらいに思ったのであろうけれど、中台双方で、結局この問題は先送りになったとか。
 ちなみに、蒋介石の墓は台北市郊外の大渓鎮という風光明媚なところにあり、現在は石門というダム湖をメインとした観光名所のようになっている。南京にある孫文のお墓に比べたら遥かに慎ましやかであるけれど、そこには真っ黒焦げになったような蒋介石の銅像もあるから、一見してお墓があるという感じはしない。

 

 

【周恩来の隠し子】
 中国語の原題では 『叫父親太沈重』(父と呼ぶには重すぎる) という本だが、これは自称、周恩来の隠し子だという女性が書いた 『わが父・周恩来伝』 である。
 この女性はサンフランシスコに住む艾蓓(アイペイ)という30代前半の新進作家で、・・・(中略)・・・この本の内容はかなり衝撃的だった。(p.237)
 一般中国人は、高潔な蒋介石に隠し子なんかがいるわけない、という思いから、この作品に大ブーイングだったらしい。一方、中国政府はだんまりを決めこんでいたという。
 著者は、以下のように書いている。
 艾蓓の書いた内容はおそらく真実だろうという結論に行きつかざるをえない。
 ここで私には思い当たることが一つある。物書きとしての共感、心の痛みである。
 それは、近代史の流れのなかに埋没した真実を追い求めても、確固とした証拠を掴むことは至難の業であることだ。ましてそれが行きがかり上、個人的に知ってしまった真実なら、世間的な影響力の大きさを慮って発表を躊躇することもしばしばで、それでもどうしても書き残したいと強く望んだときには、「これはあくまでも小説です」 と主張するよりほかないのである。艾蓓の 「魂の作品」 は、そうして出来上がったものなのかもしれないと、私は想像するのである。(p.240-241)
 真実ならば、蒋介石は、苛烈な権力闘争の中で子供がいないことが自分自身にとって最良の安全保障だったのであろうし、また身内に危険が及ぶかもしれないという点からも、隠匿していたのだろう。

 

 

【教育者、陳先生】
 陳先生は私の父の中学校時代の恩師だった。・・・(中略)・・・
 慶応大学へ留学して帰国したばかりの陳先生は、父にこう告げた。
「日本へ行きなさい、日本の科学技術は素晴らしい。それに明治維新以来の新しい社会改革の気風が満ち溢れている。これからの中国のもっともお手本となる国だ」
 1920年代。日本もまだ古きよき時代の名残を留めていた頃のことである。(p.249-250)
 この言葉によって、著者のお父さんは早稲田大学に留学し、日本人女性と結婚して現在の著者があるということらしい。
 陳先生は、戦後ずっと北京大学の教授をしていたが、中国で初めての中日大辞典を編纂したことでも知られ、北京大学近くの教員宿舎に夫人とともに住んでいた。(p.250)
 そんな先生が突然なくなったのは、天安門事件の直後のことであった。
 ・・・(中略)・・・。
 天安門事件の悲劇は大学教授であった陳先生の愛弟子たちを巻き込み、失望を与えた。中国の民主化を夢見る学生たちの心中は、そのまま陳先生の思いでもあったにちがいない。
 これまでの波瀾の道をたどってきた先生の生涯の総決算が、中国の将来に対する大きな不安と絶望であったのかと想像するのは、無念というほかなかった。
 一説によると、中国の知識人の平均寿命は短く、わずか52歳だという。(p.253)
 中国において、古き良き日本を知っていた陳先生のような方の系譜にある人々が健在で、日本においても、テレビ報道を通じて周恩来を尊敬していたという世代の方々の意識を継承している人々が多く存在していたら、日中関係はもっと違ったものになっていたかもしれない。しかし、現実は、教養や文化的精神の抜け落ちた拝金主義に毒された金まみれの米中関係が、発火点に向けてカウントダウンの下り坂を爆走中である。

 

 

<了>