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 ブラジル、パラオ、スペインに住む日系人ないし日本人のDNAをもつ人々を取材して書かれている。ブータンの時代変化から見る日本の反照も興味深い。2008年10月初版。
 著者のお二人は新聞社の方なので、いかにもそれらしい文章である。

 

 

【ガランチード】
 ブラジルでは日本人のことを 「ガランチード」 と呼ぶ。英語のギャランティ(保証つき)と同じ言葉で、「確かだ」 という意味だ。正直な人のことを 「あの人はジャポネス(日本人)みたいだ」 とも言う。(p.20)
 かつて移民たちは日本の余剰人口を海外へ捨てた 『棄民』 とすらいわれたそうだけれど、ブラジルへ移民した人々は頑張った。
 「しかし、ブラジル移民は大成功だったと思う。なぜなら彼らは現地で日本文明によく似た 『親類』 文明を創り出した。かつてスペインやポルトガル、英仏が新世界へ乗り込んで新しい文明を作ったが、日系人たちは同じことをやったのです」 (p.20)
 しかし、

 

 

【良き日本が保たれつつも、寂れていく日系社会】
「日本文化の継承と、今日を築かれた先没者への敬意を伝えることを忘れてはいけない。日系人は日本人以上に日本を愛する心が強いと言われています」
 なぜ日本人より強いのか。
「日本の社会は戦後、ずいぶん変わりましたね。ここでは戦前からの教育がつながっているのです」(p.60-61)
「私たちの日本語学校では、今も 
『教育勅語』 を奉読しているんですよ」 (p.63)
 現地に日系ブラジル人の祖国を思う気持ちの強さは、直接会って話して経験したことがあるからチャンちゃんも知っている。出身県ごとに同じ地域に集い、地域の境界には赤い鳥居を立てて住んでいるのである。(上掲写真)
 ブラジル日系社会では家族の誰か一人は日本へ出稼ぎに行っているのが現状で、「出稼ぎが始まってから、日系社会のよき習慣が失われていった」 という声も聞かれるという。
 その理由が書かれていないけれど、おそらく、日本へ出稼ぎに行った世代が、親の世代から聞いていた日本社会とはだいぶ変わってしまっている日本の現実に直面したからなのではないだろうか。それ以外に考えられない。

 

 

【小野田寛郎さん】
 敗戦を知らずに30年間ルバング島のジャングルの中で戦って生き抜いてきた 「最期の日本人」 、小野田さんはブラジルへ渡った。
「敗戦を終戦と言い換えて目をそらし、何でもカネ、カネの戦後日本人に埋めがたい断絶を感じた。こんな日本のために俺は30年も戦ってきたのか」
「日本人はますます質が悪くなってしまった。清き直き日本人は本当に少なくなった」 と嘆く。「ブラジルで信用できることをジャポネスみたいだというが、日本ではもう、日本人だからと行って信用できない。創業100年の看板も、日本を動かすべき中央省庁の官僚も。責任を怠り、欲望だけになってしまった」 (p.127-128)
・・・・・・・

 

 

【パラオ】
 国旗は青地に黄色の丸で日の丸にそっくり。日本人移民とその子孫が暮らすブラジルとは別の意味で、ここは南洋に浮かぶ 「もう一つの日本」 なのだった。(p.90)
 パラオには日系人が現在一千人余り暮らしているという。
 ナカムラ前パラオ大統領の口述、
 「パラオの日系人はどんどん年老いている。歴史は遠くなっていく。日本人も戦争を知る世代は慰霊に訪れてくるが、若い世代はパラオにダイビングにくるだけで、歴史を知ろうとしない」 (p.93)
 とかくアジアでいわれる 「反日感情」 が、この国にはほとんどないという。
 著者はその理由を以下のように書いている。
 戦前にこの島で暮らした市井の日本人たちの 「行いの良さ」、つまり日本人の美徳ゆえだったのだろう。(p.106)

 

 

【スペインのハポンさん】
 ハポン(日本)という姓をもつ人々が暮らす町が南欧スペインにある。アンダルシアの古都セビリアの近郊にある街コリア・デル・リオ。江戸時代、仙台藩が派遣した支倉常長率いる遣欧使節団の子孫とされ、自分たちが日本人の子孫だと固く信じているという。(p.109-110)
 支倉常長がスペインに渡ったのは1613年。
 ハポン姓は、支倉の一行26人のうち、何らかの理由で現地にとどまった8人ほどの武士が名乗ったのが始まりといわれる。(p.111)
 地元の小児科医に確認したところ、多くのハポン姓の幼児のお尻に青い蒙古班が見られた。通常のスペイン人には絶対に現れないという。 (p.112)
 二人のハポンさんの写真が掲載されているけれど、確かに日本人的な風貌が残っている。
 ヨーロッパの片隅にある小さな 「もう一つの日本」。彼らは異口同音に言った。
 「日本人の子孫であることを誇りに思う」 (p.113)
 ハポンさんたちが住むのは、スペインの南側。
 反対の北側、フランスとの国境にあるピレネー山脈地帯に住むバスク人のことは何も書かれていないけれど、バスク語は日本語に近い構造をしており、バスク人は謎の民族である。
 日本に最初にキリスト教を広めたフランシスコ・ザヴィエルはバスク人で、ザヴィエルを日本に送り込んだ、キリスト教の一派であるイエズス会の親玉もバスク人。彼らが上智大学を創っている。渡部昇一先生を輩出した大学で、いうならば戦後の日本を言論で守ったのは、見えざるバスク人魂であると言えるのかもしれない。
   《参照》   『痛快! 知的生活のすすめ』 渡部昇一・和田秀樹 (ビジネス社)
            【戦後、日本を守ろうとしたカトリック】

 

 

【ブータンの現状】
 ブータン独自の 「精神的幸せ」 を目指した 「GNH」 の概念は、もはや、この国の人たちですら望んでいないのか。
 農作業で真っ黒に日焼けした祖母のカンルオンさん(66)は、つぶやいた。
「昔は家族が元気であれば幸せだと思っていたが、今は違う。もうテレビやお金のない生活には戻れないからだ。お金がなくなった時のことを考えると不安で合い方がない。だからますますお金が欲しくなり、いつまで経っても幸せと感じられなくなってしまった」 (p.147-148)
   《参照》   『ラララ 親善大使』 紺野美沙子 (小学館)
                   【ブータン】

日本のNHKから技術職員としてブータンに出向している喜久村一さんの思い。
「ケーブルテレビ中心の生活のため、国民の興味が海外のニュースや情報ばかりに向かい、地元に関心を持たなくなっている。自国文化を大切にしてきたのに、自前のメディアが育っていないのはよくない傾向だと思う」。(p.158-159)
 これでは、とうてい・・・・・
 フォブジカ村ではその後、ソーラーシステムが急速に普及し、2008年までには半分以上の世帯が設置したという。(p.184)
 個別発電と情報関連の家電は真っ先に広がることだろう。
 いったん走り出したら、戻れと言っても戻れない近代化の道。
 日本と同じようにならないことを祈るばかりである。

 

 

【日本で4年間働いたことのあるブータン人のケザンさん】
 「日本人は物質的な幸せを手放さないことに手いっぱいで、何もチャレンジできなくなっている。彼らの愚痴につくり笑いで付き合う自分もいやになった」  ・・・(中略)・・・ 
「本当は日本の欠点はあまり言いたくない。向こうでの生活も十分に幸せだったから・・・」 ・・・(中略)・・・
「日本がいつまでも憧れの国であることを願っている」 (p.168-169)
 “日本人は物質的な幸せを手放さないことに手いっぱい” という指摘は重大だろう。
 この指摘は、日本人には “見えない世界=非物質の世界=スピリチュアルな世界” が意識されていないということになる。世界を高次元へと先導する役割は、日本人に託されているのに・・・・。
 
 

<了>