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 グレゴリー・ベイトソンは、コミュニケーションを起点として思索しているようなので、その領域は多分野に及んでいるけれど、強いてメインとなる学問分野をあげるならば人類学者といえようか。
 フィールド調査で出会った人類学者のマーガレット・ミードは、ベイトソンの奥様。
 大学時代に曽野綾子さんが御自身の長男のことを書いた 『太郎物語』 を読んで人類学という学問の分野があることを知ってたいそう興味を持ったことがあるけれど、この分野の書籍は、著者によりけりで最高か最低のいずれかに振れる傾向があるような印象が残っている。

 

 

【思索家ベイトソン】
 ダーウィンの進化論には、思考や行動の進化という、実は生物にとって生存のための決定的な側面が抜け落ちている。それら、つまり生物としての思考様式(メンタルな特性)と行動様式の進化はあいまいなままなのだ。ダーウィン理論の欠点を見通して、メンタルな特性の進化の重要性を進化論の射程に入れてやってきたのがベイトソンである。(トールミン(1981)) (p.27)
 ベイトソンはいくつもの学問領域にまたがる横断的な解釈方法を考えていた人なので、進化論も射程に入っていたのだろう。しかし、この書籍はコミュニケーション理論の側面に重点を置いているから、上記についての詳細な記述はない。
 ベイトソンの場合は、一代表的理論または代表的著作をもって置き換えること、はなはだ困難。一つの専門領域にいつづけなかったからじゃが、移っていった先で有名になったので、特定分野の研究者にはよく知られる、ということになった。(p.41)
 文化人類学者の中では 『バリ島人の性格』 という著作で知られ、臨床科学・社会学などでは 「ダブルバインド(二重拘束論)」 でよく知られている。

 

 

【説明原理】
 頭がヘンになること(分裂症)について、昔は、 “悪魔” のせいと言われていたけれど、「科学の世紀」 になると “疾患” のせいになった。しかし、ベイトソンは、悪魔でも疾患でもなく、その人と周囲の “関係のありよう”、すなわちコミュニケーションが病理的なせいだ、 (p.121)  と言った。
 (ポイントは)悪魔でも病気でも関係性でも、それらを実体ではなく 『説明原理』 として見ることができるという点じゃ。重力は存在するのではなく説明原理として使われるというようにな。つまり重力も分裂症も、客観的真実ではなくストーリーとして捉えてもかまわんという点、これがポイント。(p.123)
 「説明原理」 って、なんだか 「屁理屈ごっこな訳ねぇ~」 と思えてくるけれど、そう思ってはいけない。
 頭がヘンになる分裂症の原因を、病気 vs 悪魔、科学 vs 迷信 と2元論で判定してしまわず、「説明原理」という言葉で、病気と悪魔と関係性を同一の地平に並べたのが、ベイトソンのベイトソンたるところ。
 「グレゴリー・ベイトソンこそ、デカルトの2元論を超えた科学の全体像を提示できた20世紀最大の思想家である」。 これは科学史家モリス・バーマンの言葉である。 (p.21)

 

 

【治療的ダブルバインド】
 臨済宗という宗派では、公案というて修行僧にダブルバインドに似たような質問を浴びせる風習があるのじゃ。 “坊主頭を櫛でとかせ” “寝て走れ” “片手で拍手しろ” などはやや滑稽な例じゃが。ベイトソンはこういう例を出しておられる。坐禅の際に使う棒、警策(きょうさく)を弟子の頭上にもってゆき次のように言う。 “お前の頭の上に警策があるか、ないか。さあすぐ答えろ。ある、と言ったらお前を打つ。ない、と言ってもお前を打つ。答えなかったらむろん打つ。さあどうだ。速やかに言ってみろ!!” (p.134)
 分別智を離れることこそが臨在禅の公案の目的であるけれど、この公案を “治療的ダブルバインド” と捉えるというのも、 「ものは考えようだなぁ~」 と思ってしまう。
 悟りを目的とした師匠と弟子の “関係性” の中では “治療的ダブルバインド” になるであろうけれど、禅の目的を全く知らない人が、このような公案に直面したら、もろに ”ダブルバインド” に捕縛されて固まってしまうだろう。あるいは 「ふざけんな!」 と言ってキレてしまうかもしれない。

 

 

【アルコホリクス・アノニマス(AA) = 酩酊 】
 アルコール依存とのはげしい死闘の末、依存者は落ちるところまで落ちる。 「底つき」 である。しかしこのとき、彼は自分の人生が自分の力ではどうにもならないことを悟る。そういう依存者に向けて、AAは 「自分より偉大なパワーに降伏しなさい」、「そのパワーはその人その人で感じ方がちがうが、それを神と呼んでかまわない」 と諭す。
 ここでの 「パワー」 は 「システム」 に相当し、「神」 は 「システミック・ウイスダム(叡智)」 に置き換えられよう。試行錯誤する人は、セルフ・コントロールの呪縛から自由になり、精神性を備えた大きいシステムの一部分となる。
 サイバネティックスでは、自己は個体を超えて生態学的ネットワーク上にあると見る。西洋的自我の 「俺は、俺は」 は影をひそめ、AAが 「匿名は最大の自己犠牲であり、それがAAの霊的基盤である」 と言うように、匿名性がその 「部分性」 のみごとな具体化である。(p.160-161)
 ベイトソンや著者は学者だから、学際的な知の領域を守ってこの様な記述をするのだろうけれど、チャンチャラおかしい。セラピストがこの様な事を書いていたとしたら、「噴飯もの」 というか、「圧搾機から吐き出されたような嘲罵の鼻息をかけたくなる」 だろう。 “馬鹿げている“ の極めつけである。
 理屈ばかりタラタラ述べて、酩酊状態において霊的別人格に占領される状態に対処する方法を全く持たない学者やセラピスト。こんな人々に関わっている患者さんは、果てもなく気の毒である。
 
 
<了>