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 副題の通り、 “アメリカが日本の教育を破壊“ してきた結果である現在の日本。資料を提示してその事実を詳細に記述している。そして、今後どうすべきかも書かれている。日本国士の書である。2006年9月初版。

 

 

【タイゾー化】
 小泉チルドレンの中でも、特に注目を浴びていた、ヒラリーマン(平のサラリーマン)からいきなり国会議員になった杉村太蔵の境遇を、今日の若者の傾向になぞらえている。
 キャンパスの現場では 「イデオロギー」 のイの字も感じられない。むしろそこでみられるのは、努力なしwithout effort でいきなり 「成功」 success をつかむタイゾー化に心からあこがれる子供、あるいは米系外資の深謀遠慮に気づくことなく、数千万円という親ですら手にしたことにない年俸額を提示され、有頂天 flying high になっている子供たちだけだ。 (p.244)
 著者が教えている東大の学生を見ていて、このような 「タイゾー化」 を感じるという。

 

 

【まがいものの論点】
 「教育論争」 というと、教育基本法に 「愛国心」 patriotic spirit 規定を盛り込むかどうか、あるいは生徒・学生の 「学力」 academic performance は国際比較において向上しているかどうかが問題とされてきた。しかし、これらはいずれもフェイク fake (まがいもの) の論点にすぎない。(p.40)
 本当に論点とすべきなのは、以下のポイントである。

 

 

【奥の院・マネージャー国家・ワーカー国家】
 「マネージャー国家」 としての米国は、「奥の院」 の富を増やすためにありとあらゆることを行う。つまり、他国からその富(国富)を奪ってくるのが 「マネージャー国家」 である米国が果たしている本当の仕事なのだ。
 ・・・中略・・・。
 「ワーカー国家」 はみじめな存在である。石川啄木ではないが、まさに 「働けど働けど・・・」 という国である。なぜそうなのかといえば、働いて国富を貯めた瞬間に、どこからともなくマネージャー国家・米国と、サブ・マネージャー国家が表れて、掠め取っていってしまうからである。 (p.44-45)
 ワーカー国家・日本からマネージャー国家・アメリカへ、日本の国富の移転は、日米蜜月時代にその下地が整備され、そして実施されてきた。
 日本経済最強で、世界が日本から学ぼうとしていた1980年代半ば、ロン・ヤス関係の中曽根政権時代に、日本の教育方針をアメリカ化(=自由化 → 規制緩和)させる 「臨教審」 が設置され、日本の21世紀戦略を潰すためにNTT解体(民営化)が行われていた。
 そして、先の小泉政権で国民の貯蓄そのものである郵貯の莫大な資産がアメリカの手に渡ったのは、つい数年前のことである。

 

 

【日本を叩き売る輩】
 「規制緩和委員会」 およびその後継となる政府機関には、明らかに奇妙な共通点がある。それは一貫してある人物が取り仕切り、かつその周囲にはある一定の特性を持った人物だけが集められてきたということである。(p.78)
p.80-81 に3つの委員会のメンバー表が掲載されている。 「規制改革委員会」 「総合規制改革会議」 「規制改革・民間開放推進会議」 いずれも委員長なり議長というトップは、宮内義彦・オリックス㈱代表取締役社長である。委員には外資系機関のメンバーが入っているのはいうまでもない。
 郵政省を改革の主要なターゲットとして行われた小泉改革。 “かんぽの宿“ の一括払い下げ先が、すべて宮内義彦・オリックス㈱だったことは、鳩山さんが噛みついてくれたから日本人の多くが知ることになった。
《日本郵政・西川善文:関連》  『アメリカに食い尽くされる日本』 森田実・副島隆彦 日本文芸社
                      【日本の構図】
《オリックス・宮内義彦:関連》  『「レクサス」が一番になった理由』 ボブ・スリーヴァ 小学館
                      ■ ニッサンを危惧する(ニッサンと韓国は同じ経路をとる) ■
       追加          『NTTを殺したのは誰だ!』   藤井耕一郎  光文社

 

 

【 学校法人会計基準の改正を強いる人物】
  学校法人会計基準の改正を強いる人物と、それによって戸惑う学校法人に 「救いの手」 をさしのべ、実際にはビジネスを展開する人物とが、実は同一人物だということである。 ――― そのキーマンは、 宮内義彦氏だ。(p.85)
 学校の株式会社化は、アメリカで成功例となっていない(エジソン・スクール)にもかかわらず、日本にその設置を認めるという改革派の意向が実現して東京、大阪、岡山などで設立されている。

 

 

【フルブライト留学生】
 1954年に米国連邦議会においてフルブライト交流計画が可決され、アメリカの資金によって、日本からも多くの留学生がアメリカで学ぶことができるようになった。しかし、1979年にこの交流計画を継承するものとして、日本の法律上は任意団体とされる 「日米教育委員会」 が設置され、これ以降、費用は折半することを求められるようになった。日本側の負担額は2004年度で、3億6300万円である。日本国の予算より支出されているのはいうまでもない。にもかかわらず、
 この留学プログラムに最も疑問を感じざるを得ないのは、このプログラムを通じて米国に留学した日本人学生のリストが一切、公表 disclosure されていない点である。(p.158)
 著者は、フルブライトOBのリストをこの団体に要請したけれど、氏名だけのリストでしか応じなかったという。留学の原資が日本国民の血税であるにもかかわらず、実施主体である日米教育委員会は情報公開には応じないという。
 同委員会は任意団体 voluntary organization であるために、公益法人であれば当然課されるはずの情報公開の網の目にもひっかかってはこない。これでは、計画自体がブラックボックスであるといわれても仕方がないであろう。(p.159)
 任意団体としているとことがミソである。アメリカの奥の院もFRBを政府(公共)機関とせずに運営している。私物化されたアメリカ奥の院のエージェントとして教育を受けた多くの人材が、日本の主要な部署に配属され、日本の国富をアメリカに移送する役割を担っているのであろう。
 フルブライト計画の卒業生は日本側だけで6000人ほどいるのだという。(p.160)

 

 

【日本人協力者】
 フルブライト計画のOBではないが、日本の有名私立大学を卒業後、米国東海岸にある有名大学でMBAを取得する中で 「日本人協力者」 といして生きることを選んだ日本人女性の友人の言葉が、今でも私には忘れられない。
「私がいるのは、言ってみれば蜘蛛の巣の末端で、その中心にいる蜘蛛から、どこからともなく指令が降ってくるのです。しかし、私は指令を出しているボス蜘蛛が、一体、誰であるか知りません」
 彼女も含め、「残地諜報者」 あるいは 「日本人協力者」 として生きることを選んだ者達は、表面的に見れば、人がうらやんでやまないほどのキャリアアップ rapid career ascent をする。しかし、実際には、どこの誰ともわからない相手から、「米国からの悪魔の手紙」 を渡され、それを執行することを不文律 unwritten rule として生きることを余儀なくされた不自由さの中で暮らしているのである。それが、戦後日本における 「エスタブリッシュメント」 の実態なのだ。(p.160-161)

 

 

【日教組と文部省】
 「興味深いのは、日教組の保守主義が政府当局の保守主義を補強する役目をはたしている面があるということである。日教組と文部省はイデオロギー的に敵対関係にあるという事実にも関わらず、この両者は、現在の日本の公教育システムの基本的な枠組みを支持する点で同じ立場に立っている」
 ・・・中略・・・
 文部省が決める全てに対して 「反対」 の雄叫びを上げる日教組であっても、文部省が 「逆コース」 をとろうとする基点にある 「アメリカ教育使節団」 を契機とした一連の戦後教育改革自体を否定するのではない。いや、否定しないどころか、むしろそれを神聖化 sacrilege し、不可侵なもの inviolable へと祭り上げたのである。(p.169-170)
 どのような論争であれ、田舎芝居じみた茶番劇とすら言えたのである。その喧噪の陰にますます見えなくなっていく米国だった、ということ。 「分断と統治」、スーパー・エリートの基本公式通り。
   《参照》   『次の超大国は中国だとロックフェラーが決めた (下)』 ヴィクター・ソーン  徳間書店
             【スカル・アンド・ボーンズ】

 

 

【ボーディング・スクール】
 私はこの本で、アメリカにはボーディング・スクール(全寮制学校)というすごい機関があるのだということを紹介する。(石原莞爾 『アメリカのスパーエリート教育 「独創」力とリーダーシップを育てる全寮制学校』 The Japan Times 2000 ) (p.52)
 「奥の院」(=スーパー・エリート) の子弟たちが学ぶ処である。
 日本の国富の移転を指示する 「奥の院」 に対抗して、日本もそれに対抗する人材を作らなければならない。そういった人材を、著者は、「国家エリート」 と呼んでいる。
 著者のこの書籍の主旨は、「国家エリート」 を育てる 「エリート教育」 の必要性を語ることである。諸外国での留学経験などのある方々(渡部昇一先生など)も、同様の趣旨のことを語っているのを読んだことがある。
 日本が、国際的なスーパー・エリートの覇権構造の中に組み込まれてしまっているという事実を知らないことには、著者の言う 「国家エリート教育」 の必要性を認識できないだろう。 “機会の平等” と “結果の平等” を一色単にしてしまうような人々は、「エリート」 という言葉を耳にしただけで拒否的になってしまうだろうけれど、それは知の貧困であり、また、致命的な視野狭窄なのである。

 

 

 「帰国子女」 が 「棄国子女」 になってしまっている現状を憂えるところから始まって、著者は、具体的な提案を p.246 以降に記述している。

 

 

【なぜ教えるのか? なぜ学ぶのか?】
 なぜ教えるのか? それは、日本という国家・社会を国際社会の荒波の中で守り抜くための知恵を世代を超えてシェアするためである。そして、なぜ学ぶのか? それは、日本という国家・社会を守り抜くためである。(p.186)
 この記述の中に、日本固有の連綿たる奥深い文化にまで言及する記述はない。しかし、国(日本の教育)が破れてしまったならば、本当に山河しか残らないのである。日本を守る。第一である。
 
 
<了>