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 『ボディ・レンタル』 では、私の一時代の心象風景を代表する象徴的な単語に複数出会っていたので、著者の世界に通底するものを感じていた。だからこそ、この小説を手にしたのであるけれど、この作品は単なる駄作である。
 仏文出身の著者は、フランスの官能小説を読みすぎたのではないかと想像してしまった。出口のない精神的低迷に引きずり込み、そこをターミナルとするのが必然である “肉体文学” という駄作である。


【首輪】
 見つめても、尋ねても、男は何も答えない。男はただ、私のそばに立ち、決して自分から首輪をはずしてはいけないと、静かに言った。はずしたらどうなるか、なにが起こるかということも、説明しなかった。私は男の目を見上げ、少し返事に迷いながら、たぶん逆らうことはないだろう、と思っていた。男が故意にわたしを苦しめないかぎり、首輪をはめたまま、愛する男のものでいるほうが、きっとしあわせにちがいない。・・・・・わたしはうなずいた。そして男は何を思ったのか、やさしく微笑んで、わたしの右手にそっと誓いのグラスを握らせた。 (p.102)
 人には誰であれ、隷属したいという心があるものである。
 強者であればあるほど、その裏腹のコントラストは強いものであって、その2面性を悩まない。
 弱者は、コントラストをなしえぬ不明瞭なグラデーション領域を何とか記述しようと、無駄な文学を著したがる。

 

 

【隷属の心理】
 ところで、隷属の心理に関するこの部分を読んでいて、アメリカの人種差別問題を扱っていた社会派の映画 (マンダレイ) を見たときのことを思い出していた。
 黒人の側に “差別される側で安住したがる心理がある” のである。このことに気づいた時は、正直なところショックだったのだけれど、この心理との共通性をふと思ったのである。
 歴史書の中に、足に鉄鎖・首に枷という黒人奴隷の姿が、掲載されていることがある。これを見た人が懐くであろう、「何と悲惨な人々であることか・・・・」 という第三者的な良心的思念とは別に、奴隷状態にある本人の心理には、隷属の快というものがありうるのである。これは、社会問題とか人種問題とかの領域で解釈されるべき問題ではない。あくまでも個々の人間の心理の問題である。
 アンダーグラウンドに実在するサド・マゾの世界や、官能小説の世界では、社会問題とか人種問題を考慮しなくてよい前提があるために、人間の隷属心理がダイレクトにレリーフされ肥大化するのであろう。
 この心理について、どんなに精緻な記述がなされようと、畢竟、それらは何の解明にもならない。解明にならないからこそ、アンダーグラウンドな領域で、終わりのない低迷世界を末永く形成してゆけるのである。
 アングラ小説・ポルノ小説などの肉体文学は、誰がどう記述しようと駄作以外は生み出せない世界なのである。
 何故か?
 肉体と脳の構造に制約されているからである。
   《参照》   『いい女は、セックスしない』 石崎正浩  なあぷる 
              【人間を人間たらしめるもの】 
 但し、↓
 
 
【「隷属の心理」と「献身の心理」】
 「隷属の心理」の本来が、支配・被支配という二元性世界の轍に嵌ったものではなく、宇宙流動に依拠する高低差に沿うもの、即ち「献身(絶対的ゆだね・広大なるあけわたし)の心理」であるとするなら、両者の関係は一転して、崇高の極に達するものになる。
              【「絶対的ゆだね」「広大なるあけわたし」】
              【古代社会の奴隷制】
              【流動を生む高低差】
 
<了>
 

  佐藤亜有子・著の読書記録

     『首輪』

     『ボディ・レンタル』