①ではJリーガーの所属クラブとの雇用形態に関しての説明で終わったが、②では個人での実例を踏まえながら考えていきたい。

①で述べた岡野洵という選手はジュニアユースからの生え抜き選手で、2018年で高卒3年目となる。

ユースのアマチュア選手として出場できる2種登録を高校時代に2年間経験してから、正式にJリーガーとしてトップチームに合流。

そのルーキーイヤーの2016年は7試合に出場し、うち6試合は先発フル出場。そのため、90(分)×6+46(分・途中から出場)で586分と1年目にしては上々のスタートを切った。

翌2017年はシーズン序盤に新監督からレギュラーに抜擢されて、最終的にフル出場6試合を含む合計710分の出場時間を稼げた。

この時点で、岡野は3年間というC契約のタイムリミットを余裕でクリアできた。

そのため900分間という出場時間をクリアした5月26日のホーム愛媛戦のあと、6月11日にクラブは岡野にA契約の移行を決めて、晴れて岡野はJリーガーとしてのステータスになる年俸の上限が無制限のA契約に移行できた。

余談だが、岡野はジュニアユースからの生え抜き選手なので、満24歳になる直前の1月31日(2021年)までに移籍がまとまれば、ジェフがJ2だったとして、23歳の時点でJ1クラブに移籍すればトレーニングコンペンテーション制度(TC制度)で、移籍先から5100万円の移籍金を得ることが可能だ(それがないことを祈るが)。

ただ一方でJ2から下のクラブだとA契約に移行できない財政が苦しいクラブもある。

以前、J2・水戸ホーリーホックの社長が、J1の高卒1年目ならC契約の満額(年俸480万円)が可能だが、水戸でCの満額が可能なのはバリバリのレギュラークラスだけだ、とあり財政においてクラブ間の格差も見え隠れする。

そのためJ2でこの現状ならJ3の1350分間というA契約の移行の基準というのも、ある種の形骸化したものというのも推察できる。

今回はJリーガーの雇用形態に対して説明したが、華やかなプロスポーツの世界も、実は足元は激しい競争に晒されているのがわかる。

夢の世界で生きるために寿命を永らえるのも大変なのだ。


冒頭のタイトル、サッカーに興味がない読者にとっては何のことだか分からないだろうが、Jサポにはピンとくる話である。

今回のブログテーマの主人公は2018年で、J2ジェフ千葉に入団して3年目のユース生え抜き選手であるDFの岡野洵である。

毎年正月頃になると各クラブが新入団選手の発表がある。もちろん筆者がサポをやっているジェフ千葉にも新入団選手記者会見がある。

そうしたJリーグという華やかなプロスポーツという場であっても、晴れてJリーガーになった選手はいきなり過酷な生存競争が待ち受けている。

今現在のJリーグはJ1・J2・J3とあるが、それぞれのカテゴリーに入団する新人選手には、ある意味でプロサッカー選手としての「ノルマ」がある。それが今回のタイトルにある「J2選手 900分の壁」である。

基本的にJリーグクラブに入団する新人選手は、どんなにアマチュアサッカー界のスター選手でもC契約からスタートである。

「C契約とはなんぞ?」と思うかもしれないが、Jリーガーの所属クラブとの契約は基本的にA・B・C契約の3つからなる。

C契約では年俸の上限が480万円と、リーグの規約で決まっていて、年俸の上限がない本来のプロスポーツ選手としてのステータスがあるA契約を勝ち取るためには、Jリーガーとしての厳しいノルマを達成する必要がある。

C契約からA契約に変えるためには、リーグ毎の基準がある。

それはA契約ではJ1だと450分の試合出場時間があればクリアできて、J2では900分、J3では1350分という基準を達成しないといけない。


しかしながらC契約という仕組みには3年間しか有効期限がなく、Jリーガーになっても3年以内に、この出場時間をクリアできない選手は容赦なく契約満了(戦力外)になる。

なおB契約という仕組みは年俸の上限が480万円であるが、契約期間の制限はない。しかし、ある程度活躍したJリーガーだと、C契約からA契約に直接移行するのが一般的でB契約という雇用体系はあまり聞かない。

また各クラブでA契約が可能な選手の人数というのも上限があり、無尽蔵にA契約をすると、クラブの人件費が高騰しチームの破綻という危険性も孕むので、リーグはそうした事態に考慮して、A契約の選手の人数に制限をかけている。

今回のブログは主人公個人の契約までは踏み込めなかったが、②でそれを述べていきたい。
①ではタイなどの東南アジア諸国における食料事情の改善が、これらの国の骨格を向上させた、という話をしたが、②でも続きを述べたい。

1990年代後半のフィリピン人東洋王者でウエルター級のレブ・サンティリャンという拳士がいた。

①でも述べたが、当時の東洋王者で重量級のフィリピン人は珍しかったが、筆者は彼のニックネームが気になる。

サンティリャンの異名は「GENTLE GIANT(巨大なる紳士)」と呼ばれていたが、1つ引っかかることがあった。

サンティリャンの身長は5フィート11インチ(180.3cm)だった。

デカいとはいえ「巨大な」とまでは言えるのか?という疑問も…。

要は当時のフィリピン人で180cmというのは日本人にとって190cmくらいのインパクトであったということだ。

しかし、今の時代はアジア人全体が大型化しつつある。

筆者の応援するサッカーJ2のジェフ千葉に去年まで在籍していた日本代表経験のないGKだった岡本昌弘(現・愛媛)の身長は190cm。

またバスケット・フィリピン代表の控えのセンターであるジュン・マール・ファハルドは208cmだった。

ただファハルドは長身であったが、体格自体は「(胸板が)薄く」て「ひょろ長い」感じがした。

一方で、フィリピン代表のレギュラーでアメリカ出身の黒人帰化選手は「(胸板が)厚く」て「デカい」感じがした。アジア人の骨格が本当の意味で向上するのはもう少し先かもしれない。

色々例を挙げたが、20年前に比べてアジア人の骨格は著しく発達した。

しかし、何の競技でも世界に伍して闘うだけのしっかりした骨格を持つにはもう少し時間が必要なのである。