この冒頭のタイトルは高校サッカー選手権の優勝校である滝川第二の元監督で、現在はサッカー台湾代表監督の黒田和生氏の言葉である。

この言葉はスポーツの世界に身を置いたことのある人間なら誰でも真理だと思うし、疑う人はいない。

しかし、今のスポーツ界はそれが意外とできていない。それについて今回は紹介していきたい。

基本的に筆者はこのブログではポジティブなことを発信していくつもりであるし、その気持ちに変化はない。

しかし、この「試合は最良の教師である」という部分をどう改善するかを考えている関係者はほとんどいない。

筆者の卑近な例を出すが、筆者は若い頃プロボクシングを志した。最初はヘッドギアと大きな饅頭グローブのアマチュアボクシングに興味がなかった。

しかしその当時の競技水準を考慮してアマチュアからやろうと考える。

しかし、筆者がボクシングをやっていた頃はプロとアマの関係が犬猿の仲だった。

だが、なまじ通っていた大学のアマチュアボクシング部が強豪だったが故に、大学から始めた筆者は当然相手にされない。

結局、プロのジムでしか競技を続ける選択肢がなかった筆者にアマチュアの試合に出られる手段はなかった。

プロのジムの指導者にアマチュアの試合に出場したいと(毎月の1万円の月謝を払って)頼んでも、権威主義が蔓延した老指導者は「ウチはアマをやってねぇ!」の一点張り。

さりとてアマチュアの試合に出場する手段もない筆者は、最終的にプロ・アマ通して1試合も出場せずに競技生活を終えた。

他にもやる気はあっても、出場機会を与えられず、モチベーションの喪失でボクシングを辞めた人間は枚挙に暇ない。

もちろんボクシングという競技は他とは違い、負けたら屈辱感だけでなく身体的な障害もリスクとして内包している。

そのため試合に出場できなかったのは単に実力や人間性がなかったのも受け入れられないわけではない。

しかし、基本的にこの世界の人間は昔も今も結果にこだわる割には、出場機会というチャンスを与えないのは普通だった。

それ故に、今のボクシング界が村田諒太がいなくなったらおしまいという状況なのは、ボクシング関係が若い選手の機会を作らなかった。

そしてモチベの喪失→競技人口の縮小と、いわば自業自得の産物である。

②ではボクシング以上にチャンスを与えるべき野球やサッカーについて考えたい。
①ではスポーツで勝つ為に3つの「間」の中で「(時)間」が壁になる、という説明をした。②ではそれ以降の補足をしていきたい。

別に実力が拮抗すれば紙一重の勝負になるのは他の競技でも同じだが、例えを分かり易くする為にまたも野球を例に出す。

野球の試合では1-0か10-9のどちらかの哲学を選ぶ必要がある。練習時「間」がネックになるからだ。では残りの2つは何だ?

野球という競技は戦況によって守備の陣形を微妙に調整する。

1回表で無死満塁のピンチなら1点取られてもいいからゲッツー狙いの守備とか、以前に観戦したWBCで打者筒香の時に中国のショートが二塁ベース寄りに守り、痛烈なセンター返しをショートゴロに変えたとか、練習を費やし洗練されたチームほど、当たり前のようにシチュエーションによって守備陣形を微調整する。

ここでの守備陣形の微調整。それが2つ目の「間」。それが「空間」である。

その最適な「空間」を手に入れる為に、どれだけ「時間」を費やすか?

そこで必要なのが、3つ目の「間」。「手間(練習)」。

限られた「時間」の中で、最適な「空間」を手に入れる為に、最も効率のいい「手間(練習方法)」を導き出す。それが今回のタイトルにある3つの「間」だ。

別にスコアが青天井になる競技に限らず何のスポーツでも同じなのだが、説明し易いように今回はこうやって説明した。

しかし、これはスポーツのみならずむしろ一般の仕事の方にも言えることだ。

部活の場合だと勉強が第一になる為に練習を効率化することも可能だが、仕事の場合、何故か(労働者の)時間も手間も無限に遣うことが許される風潮にある。

しかし、平成すらも2019年には終わる現代で、共働きや介護離職も増えるであろう新しい年号に突入しつつある時代に、そんな介護や子育ても限られた時間でしないといけない労働者に、仕事に時間や手間を無限に費やしなさい、という昭和な企業は早晩、淘汰されるだろう。

時間というのはタダで無限だと思う錯覚を感じるモノがあり、それがエンドレス残業に繋がるのだが「メメントモリ(死を忘れるな)」というラテン語の言葉のように時間は有限である。

またコンビニやスーパーマーケットのように、店内の空間が有限な店舗経営では、売れない商品はガムのスペース1つでも3日も余計に置かないという厳しいビジネスとも言われる。

当然のことながら、時間や空間と同様に手間もまた有限だ。

今回は少し哲学的な意味も踏まえて3つの「間」という言葉の意味を説明してきた。当たり前に手に入る時間や何も考えないでテキトーに空間があると思うと、将来イタイ目に遭うだろう。

今回のテーマはスポーツの現金化と言いながら、スポーツ以外の仕事や勉強・家事などにも応用できる内容である。そのことに留意してご静聴願いたい。

いきなりですが問題です。野球・サッカー・バスケの3つの球技にはバレーボールやテニスにはない特徴があります。それは何でしょう?

「何いきなり訳の分かんねーこと言い出すんだ?独眼鉄?」と思う読者もいるだろう(今に始まった訳ではないが)。

答えは、これらの3つのスポーツは「実力差があれば点差が青天井に差がつく」ということである。

「何だ。当たり前じゃねーか」と思う読者もいるであろう。しかし「コロンブスの卵」という言葉にもあるように、人間当たり前のことほど他者に言われないと気づかないモノだ。

それでは点差が無限につけられるスポーツにおいて、どういう真理が生まれるのか?

それは「野球には1-0で勝つための練習と、10-9で勝つための練習がある」という言葉である。

この場合、真理というより哲学、または信条という言葉の方が近いかもしれない。

野球には点差がつけばコールド勝ちという制度もあるし、バスケにはダブルスコア(倍の点差がついた試合)という単語もある。前述の通り、これらの競技では強豪と弱小では実力差がつくとスコアも段違いである。

しかし、トーナメントも佳境になり、生き残りのチームも選りすぐりの精鋭になると、実力も当然のことながら拮抗してくる。

大会前からどんな下馬評有利なチームでも必ず優勝するという保証などない(そんなモノがあったら、そもそもそれはスポーツではない)。

もちろん、バレー選手やテニスプレーヤーも拮抗すれば紙一重の勝負になるだろうが、ここでは例え易くする為に前述の野球などのスポーツで例を出す。

野球で勝つ為には1-0か10-9の試合しかない。もちろんどの監督も10-0で勝ちたい。

しかし、どれだけ練習時間を割いてもあることに気づく。一日は24時間しかないということに…。これが1つ目の「間(時間)」というモノである。〈②に続く〉