①では野球ファンにおいて最も大切な要素というのが、理想の野球論という名の妄想であり、その妄想を言葉で説明できる能力というのが、野球という文化の醍醐味だ、ということを述べた。

②で筆者が最も溺愛しているサッカーという競技からその説明をしたい。

スタジアムに来るサッカーのサポーターというのは、様々な理由から貴重な時間と金を割いて試合観戦をする。

ある者は平日のストレスをゴール裏でバモることで発散し、ある程度は地元のチームの勝利を願い、またある者は戦術などの分析を追求する。

それぞれが形は違えど、サッカーを愛して止まない人間の鬱屈とした感情から愛情への昇華であり、それは色々な形があっていい。

しかしサッカーのサポーターなら、理想的なサッカーの形としてここは譲れないところだ、というキモの部分を持ってもらいたい。

それは様々な形で違っていていい。ある者は「1対1で絶対に負けるな」でもいいし「縦パスへの意識を躊躇(ちゅうちょ)するな」でもいい。

また「ウチの選手が相手に技術で負けても仕方ない。でも90分間走りまくって、走り負けるなっ!」でもいい。

とにかくピッチをつぶさに観察して「サッカーにおいて最も大事な部分はここだ」というモノを1つ見出してもらいたい。

そうして観戦したした試合には砂を噛むような敗戦や屁がもれるような凡戦もあっただろう。

しかし一見そうしたしょうもない試合にも意外な経験値が眠っていて、そうした試合での知識が自身のサッカー観の礎となる。

筆者はサッカーの価値というのは勝敗よりもサポーター1人1人が勝利に向かうプロセスを言葉にする部分に文化というモノが眠っているように見えてならない。

逆に「勝てば官軍」というのは単なる作業になって、正直面白くもなんともない。単なる卑しい人間のつまらない言葉だ。

サッカーを単なる興行から文化にするにはサポーターの1人1人が言葉を持つ必要がある。サポーター自身がサッカー文化の伝道師なのである。


筆者もサッカーファンというのを、J2でズンドコしているジェフユナイテッド千葉というクラブを中心に観戦してもう20年、定期的にスタジアムに行くようになって10年近く経つ。

そうした中でもにおいて(野球や他のスポーツにも言えることでもあるが)、いわゆるサポーター(ファン)にとって何が大切なことなのか?というのはブログをやる前から模索していた。

その中で行き着いた結論というのが冒頭のタイトルである。

サッカーであれ、野球であれ、スポーツのファンというのは自分の愛情を注ぐチームを勝たせたいと願うのは同じである。

そこで実力差がついたらスコアが青天井になる競技なら「理想のスコア」というモノが頭の中に導き出される。

野球だったら、投手はどういうタイプが良いか?試合展開はロースコアゲームになるから、4番以外は打撃に期待はできない。代わりに守備はしっかり守れるチームにしたいetc…。

そうした上でチーム編成をどうすべきか?近年言われるワークシェアリングではないが、投手の世界も9イニングをいかにシェアして最少失点に抑えるか?

そうした中で、理想的な継投のタイミングは?逆にイニングイーター(長いイニングの登板もできるタフな投手)が必要でも何回まで任して、いつ交代を判断するのか?

実力差が拮抗すればするほど、理想的なスコアというのが野球ファンの脳内に浮かび上がってくる。

もちろん10-0で勝ちたいというのは野暮な答えだ。じゃあ今のソフトバンクにそんな勝ち方ができるチームがこの世に存在するのか?と逆に訊きたい。

野球というスポーツでも、これだけ様々な理想(妄想?)は可能だ。

スポーツにおける文化というのはそうしたファンの妄想を言葉にして説明する能力に集約される。

②では筆者が最も愛しているサッカーでそれを説明したい。
①では中学野球で才能があっても、カネが理由で野球を続けるのが困難だという話をしたが、②でもその続きをしたい。

前述の「ヤキュガミ」で高校の進路を決める時に、三者面談で野球の強い私立に行かせようと教師が私立のパンフレットを見せたら、入学金の欄を見て主人公白戸大輔の母親があまりの高額ぶりに泡を吹くシーンがあった。

一方で、話は前後するが、①で対戦した地元の裕福な家庭の有望選手は子供の頃からバッティングセンターに好きなだけ行けて、私立に行くのも問題なし。

福沢諭吉は「天は人の上に人を作らず、人の下にも人を作らず」と人間の平等を説いていたが、実際にはそんなことはなく、自身が肖像画となっているお金というモノが人の上にも下にも人を作って階層を作っているのが皮肉である。

結局、白戸は都内の都立高校で野球を強化している学校のセレクションを受けるところで1巻は終わっているが、さっきの話ではないが、野球というスポーツで大事なのはカネであって、①で述べたマタイ効果の富める者はますます富んで、貧しくなる者はますます貧しくなる、という世界になりつつある。

野球の話を今したが、筆者が好きな相撲やボクシングにも似た傾向がある。相撲のわんぱく相撲やボクシングのU-15で好成績を挙げた選手が、有力中学・高校で実績を積んで名門大学に入るか、高校卒業と同時にプロ入り。

相撲部屋なら強豪大学の相撲部とコネのある境川部屋や木瀬部屋、ボクシングならテレビ局の放映枠のある帝拳ジムや大橋ジムに入門し、格下とのマッチメーク。

力士ならアマチュア相撲で実績を積んでマゲのゆえないざんばら髪の力士もそうだが、相撲でもボクシングでも最初から勝つ選手というのは決まっていて勝つ選手はどんどん有力な条件で勝っていき、叩き上げの選手は不利な条件でどんどん負けていく。相撲もボクシングもある意味マタイ効果になっている。

プロ格闘技というのも面白くない訳ではないが「面白いけど夢がない」世界に成り下がった感がある。

スポーツの関係者はこうした格差社会で本当に子供が夢を見られるか一回考えた方がいい。